東スポnote
【プロ野球】岩村明憲「ガンガンいこうぜ」
球界でも独自の存在感を放ってきたのが現在、ルートインBCリーグ・福島レッドホープスの球団代表を務める岩村明憲監督。「何苦楚魂」を座右の銘に掲げ、道を切り開いてきた岩村氏が、自身の野球人生を振り返った

僕と仲が良かったノリとローズのこと、「野村ノート」を使った伊勢さんの白熱教室【礒部公一連載#3】
前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ 報道陣と話すときは英語だけど、日本語が上手なローズは普通に「なんでやねん!」 同級生の中村紀洋とは仲がよかったですよ。よく飯にも行ってました。彼に打撃の相談をしたこともあります。僕が「打てないから酒をやめるわ…」と言うと「何、ちっちゃいこと言うてんねん。酔拳でええんねん。そんなもん」って(笑い)。近鉄の場合はそうなるんですよね。そんな小さいこと言わんでええやないかって。周りは彼に気を使ってたと思うけど、僕は気を使って話すようなことは

プロ野球界激震の2004年!労使交渉しながらのプレーは大変だったけど成績は…【礒部公一連載#4】
前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ 盗もうとしても無理だったイチローの技術のすごさ 打撃に悩んだときもヘッドコーチの伊勢孝夫さん、打撃コーチの正田耕三さんによく相談していました。「この場面は頭を使っていってこい」と言われたら相手投手は普通の配球をしてこないということ。教えてもらったことを思い返して「勝負球が来るぞ」「ボール球から来るかも」とか一瞬、冷静になって打席に入っていた。僕が得点圏打率(4割1分7厘)がよかったのはその辺にも理由があると思います。僕の打撃が開眼し

野球をやめるつもりの僕に舞い込んだトレード、そして〝最後〟はあの球場に導かれ…【太田幸司連載#10・最終回】
前の話へ / 連載TOPへ ジャンボ尾崎さんの活躍に触発され、プロゴルファー転向を決意!? 2年目のシーズンを終えたボクは、もう野球をやめるつもりでいた。故障でもないのに体が動かず、まともな球が投げられない。それでも人気は全く衰えず、球宴ファン投票では二軍暮らしなのにダントツの得票で選出された。それからというもの、周囲の厳しい視線が体中に突き刺さる日々が続いた。<ふん。実力もない人気だけの選手のくせに>――。 故障でもないのに体が動かないことに悩んでいた太田氏 昭和

過熱する人気、プロ入り後に初めて味わったスランプ。2年目の球宴は悲しくて苦しくて切なくて…【太田幸司連載#9】
前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ ドラフト会議、意外だった近鉄の指名に僕は迷った 東京六大学で通算18本塁打を記録した早大・谷沢健一、同じく19本塁打の早大・荒川尭、そして三沢高の超高校級右腕・太田幸司――。昭和44年(1969年)のドラフトで、ボクはこの年のビッグ3として高く評価された。スカウトとは直接会うことはできなかったが、窓口となった野球部長の元には西鉄以外の11球団がやってきた。注目の会議は11月20日、東京・日比谷の日生会館で行われた。 母・タマラさん