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年間300試合戦った藤波辰爾「常に気が抜けないことが逆に刺激になっていた」【豪傑列伝#30】

 プロレスラーは年間300試合を戦う――。もはや伝説に近い言葉だが、藤波辰爾は実際に月25試合のペースで戦った経験を持つ数少ないレスラーの一人だ。

【藤波の話】WWWFジュニア王者になって、ヘビー級に転向するまでの2~3年間は日本で250試合、米国で50試合の年間300試合ペースだった。当時は国内で年間8シリーズあって、長い時は1シリーズで40試合近くあった。それが終わると、すぐに米国に飛んで今度はWWWFのサーキットが始まる。ニューヨーク、オハイオ、テネシー、マサチューセッツ…。日本に戻ると、翌朝から新日本のシリーズに合流した。そんな日々の繰り返しだった。

ニューヨークではWWFインターヘビー級王座も奪取している藤波。かおり夫人(右)、初代タイガーマスク、キラー・カーンらの祝福を受けた(1982年8月)

 パスポートは瞬く間にスタンプを押すスペースがなくなった。それでも足りず、新しいページが追加される。パスポートはどんどん厚くなり、更新の時には文庫本並みに膨れ上がった。休む暇もないほどの試合と移動の連続。だが、不思議なことに当時の藤波につらさはなかったという。

【藤波の話】ひと言で言うと若さだろうな。ハードなスケジュールも好奇心がすべて打ち消した。あの頃は自分の存在感を一番出せたし、お客さんの反応もあったから疲れを感じなかった。レスラーにとって、プロモーターから呼ばれることは誇りであり、一つのステータス。悪い気はしなかった。だから周りのほうが心配していたよね。気づいてないのは自分だけみたいな…。

 巡業先では病院を探し回り、注射や点滴を打って会場入りした。肉体のメンテナンスには気を使っていたが、口に出すことはおのずと控えた。

【藤波の話】具合が悪いとか、泣き言が一切通じない時代だったからね。トレーナー制度がなかったから、治療っていう治療をゆっくり受ける時間もなかった。負傷したら自分で冷やしたり、テーピングを巻くぐらいしか方法はない。あの時代は野球も相撲もそう。ケガをしていることを表に出すのは、プロとしてあるまじき行為だった。

過酷な防衛ロードに臨んだ藤波は、米ニューヨークのマジソンスクエア・ガーデンで死闘を繰り広げた

 長年の無理は藤波の腰を暴発させた。だが長期欠場を乗り越えた藤波は現役続行を決意する。2007年5月には国内通算3500試合を達成した。2年9か月に及ぶ海外武者修行での試合や、WWWFジュニア王者時代の試合が加われば…通算の試合数は想像もつかない。

【藤波の話】記録が残っていれば、馬場さん(注・公式発表は5769試合)より試合をしているかもしれない。だから腰も悪くなるはずだよ(笑い)。でも今思うと、忙しかった時はいい顔をしていたよね。常に気が抜けないことが逆に刺激になっていた。今もスケジュールが埋まっていると安心します。

 試合があることが藤波の生きがい。今年でレスラー生活40年を迎えた藤波は回遊魚のごとく、戦い続ける。

※この連載は2009年4月~2010年3月まで全33回で紙面掲載されました。東スポnoteでは当時よりも写真を増やしてお届けします。


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