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【プロレス】豪傑列伝

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プロレスと格闘技界の豪傑のエピソードをまとめました。
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記事一覧

鈴木みのると泥酔暴行騒動…船木誠勝「今なら当然、クビですよね」【豪傑列伝#33/最終回】

プロレスラー・船木誠勝は隠れた酒豪伝説の持ち主だ。新日本プロレスに所属していた1985年、15歳11か月で当時の史上最年少デビュー記録を打ち立てた船木は、すでに苦手だったアルコールを克服。早熟過ぎた船木を更生させたのは、3・21両国の金網マッチで激突する宿敵・鈴木みのるとの泥酔暴行騒動だった。  言うまでもないが、アルコールは20歳になってからだ。しかし、先輩の命令には絶対服従の体育会系に育った船木が、未成年であっても酒を口にするのは時間の問題だった。もう時効だろう。  

4トントラックにひかれた本間朋晃「なぜムタは逮捕されないんだ?」【豪傑列伝#32】

 1997年に大日本プロレスでデビューを果たした本間朋晃は、数々の過激デスマッチをくぐり抜けてきた。  その後、2004年に全日プロに入団。「王道」に足を踏み入れたかと思いきや、まさかここでデスマッチ団体での経験が生きるとは…。  同年6月9日の石川・金沢大会で小島聡とタッグを組んだ本間は、何とムタに自動車でひかれる惨事に遭った。もともとは小島がムタ戦を熱望したことから組まれた一戦で、本間は単なる「とばっちり」を受けただけだった。  めげない本間は翌10日の長野大会に元

沼澤邪鬼が語る初めての蛍光灯デスマッチ「いきなり死にそうになりました」【豪傑列伝#31】

 デスマッチの雄・大日本プロレスでも、一部から熱狂的な支持を集めているのが“黒天使”沼澤邪鬼だ。ケガを恐れず、理不尽な言動も数知れない。その生きざまは「神様」の異名通りだ。  幼いころからケガと隣り合わせだった。3歳の時に不注意から左手を骨折し、中学時代には柔道部の練習で受け身に失敗して右ひじを骨折。生まれて初めて入院生活を余儀なくされた。高校卒業後は地元の埼玉・本庄市の工場に就職。その後は職を転々としたが、レスラーになる夢をあきらめきれず、2000年に大日プロに入門。同年

年間300試合戦った藤波辰爾「常に気が抜けないことが逆に刺激になっていた」【豪傑列伝#30】

 プロレスラーは年間300試合を戦う――。もはや伝説に近い言葉だが、藤波辰爾は実際に月25試合のペースで戦った経験を持つ数少ないレスラーの一人だ。  パスポートは瞬く間にスタンプを押すスペースがなくなった。それでも足りず、新しいページが追加される。パスポートはどんどん厚くなり、更新の時には文庫本並みに膨れ上がった。休む暇もないほどの試合と移動の連続。だが、不思議なことに当時の藤波につらさはなかったという。  巡業先では病院を探し回り、注射や点滴を打って会場入りした。肉体の

60万円だと思って買ったロレックスが600万円!曙「返品?考えもしなかったですね」【豪傑列伝#29】

規格外の肉体を誇った元横綱曙は、買い物も豪快だった。横綱時代は海外で超高級腕時計にひとめぼれして「10倍」の価格で購入したという。現在では「惜しいことをした…」と悔やむ秘話とは…。 1995年、横綱として全盛を極めていた時期、曙は海外公演で訪れたオーストリアで、信じられない出来事に見舞われた。 この決断が誤算だった。帰国後、曙は自分の目を疑う。届けられた明細書にはハッキリと「600万円」と記されていたのだ。どうやら、店側の単純な(?)計算ミスか、曙の勘違いが原因だったらし

井上康生の道着を強奪!澤田敦士「ふんだくって、そのまま持って帰っちゃいました」【豪傑列伝#28】

 その生い立ちは栄光と波乱の連続だ。北海道出身の澤田は幼い頃から抜群の運動神経で、小学校時代には砲丸投げで当時の道内記録を作り、スキーも旭川市の大会で優勝。柔道も全国大会2位に入るなど、地元テレビ局では「スーパー小学生」と特集が組まれたほどのスターだった。  小学校卒業後は上京して、柔道の超名門・講道学舎に入門。畳の世界で頂点を目指したわけだが…。  講道学舎の厳しい指導で覚醒した澤田は、世田谷学園高時代から豪傑ファイターとしての頭角を現し始めた。最初の標的は2008年北

頭皮がめくれてペッタンペッタン…田中将斗「笑い事やないっちゅうねん」【豪傑列伝#27】

 ゼロワンの弾丸児・田中将斗はメジャー、インディを問わず、どこのリングでも高評価を得ているレスラーだ。かつては日本人で初めてECW世界ヘビー級タイトルを奪取。ハードコア路線を得意としているだけに生傷は絶えない。旧FMW伝統の“休まない”美学を今に伝える男が経験した大惨事とは…。  デビューから16年、これまで300針以上、体を縫ってきた。今でも忘れられない傷が、頭頂部に残っている。  頭頂部の皮がめくれて頭蓋骨が見えていたにもかかわらず、そのまま試合を続行。当時、対戦相手

葛西純「あのババァ、医師免許持ってなかったんじゃねぇのか?」【豪傑列伝#26】

 プロレス界の〝狂猿〟こと葛西純は自他共に認めるデスマッチの天才だ。蛍光灯、画ビョウは日常茶飯事。11月20日にはあまりに危険なため過去3度しか行われていないカミソリボードデスマッチを敢行。デスマッチ史に残る戦いをくぐり抜けてきた男は、常識外れの生命力を持っていた。  デスマッチにこだわりを持つ葛西だけに、試合後の肉体はいつもズタズタ。生傷とは切っても切れない間柄だ。そんな葛西でも「あれはクレージーだった」という出来事があった。  聞くだけで身の毛もよだつ話だが、本人はケ

ゴルゴ13をライバル視した青木篤志「特別仕様なのか?それともデューク東郷の腕がいいのか…」【豪傑列伝#25】

 狙った獲物は逃さない。誰からともなく“有明のゴルゴ13”“金髪スナイパー”と呼ばれるほど、独特の殺気を持った男がいる。ノアの青木篤志だ。リング上ではスピーディーな関節技を得意とする青木は、自衛隊時代は銃の扱いに卓越し、射撃の名手として知られていたという。  青木が自衛隊に入隊したのは、高校卒業後の1996年4月。まず最初に埼玉・朝霞駐屯地で半年間の新隊員教育を受けた。予想以上に厳しい訓練が待ち受けていたが、青木は自分の特殊な能力に気がつく。  銃は使った後に入念な手入れ

カズ・ハヤシ「食いたくなったら食う。行きたくなったら行く。お金もためない!」【豪傑列伝#24】

 カズ・ハヤシは、マット界きっての食通である。プライベートでは「特にやることもない」というほどの無趣味人間だが、デビュー時から続けているのが“弾丸グルメツアー”。思い立ったら日帰りで日本全国を食べ歩いている。  プロレスと切っても切り離せないのが地方巡業だ。だからこそ、レスラーは各土地のおいしいものを知り尽くしている。特にカズは自ら「舌が肥えてる自信はある」と豪語するほど。人並み外れた食べ歩き経験がその自信を支えていた。  今では当たり前のように旅行代理店が“弾丸ツアー”

国際電話に150万円使った西村修「ケンカと愛の確認作業に…」【豪傑列伝#23】

 西村修は自他共に認める国際派レスラーだ。米国・フロリダに生活拠点を置き、これまでに訪れた国は26以上。世界レベルで活動を続けているだけに、国際人ならではの豪傑エピソードもあった。  住まいはフロリダの一等地。ヤンキース・松井秀喜の応援にも行く。散歩がてらインドに飛び立っては、気ままに欧州へ出向く。まるで渡り鳥のような生活を満喫してきた西村だが、その国際派ぶりは、予想をはるかに超えていた。  聞くだけでグッタリしてしまうが、無意味に海外を回っているのではない。新日本プロレ

伊東竜二「そのままバイクで病院にいったんですが、お医者さんが『緊急入院です』」【豪傑列伝#22】

「デスマッチの雄」大日本プロレスのエース・伊東竜二ほど命知らずの男はいない。何度も選手生命を脅かされる大けがを負いながら、不死鳥のごとく生還してきた。最強デスマッチ戦士の生きざまとは――。  流血は日常茶飯事。全身に刻まれた切り傷は100や200では収まらない。命も惜しまずデスマッチで暴れ回ってきた伊東だが、これまで2度にわたって「最悪の瞬間」に直面したという。最初の惨劇は2006年9月のBJW認定デスマッチヘビー級選手権だった。当時の王者・佐々木貴に挑戦した伊東は、約4メ

パンクバンド「タモーンズ」でCDも出した本田多聞【豪傑列伝#21】

 アマ時代〝レスリングの神様〟と呼ばれた本田多聞は意外な素顔を持っている。パンクロックバンド「タモーンズ」を率いるボーカリストで、インディーズレーベルからCDを出した実績もある。アマチュアバンド界でも〝神〟とあがめられる本田と、ロックバンドとのつながりとは――。  音楽に目覚めたのは小学生の時だ。ベンチャーズ、キャロル、クールスなどの和洋ロックに友人たちが熱中していた。そのカセットテープをラジカセで聴いたのが始まりだった。中学校に入るとビートルズの音楽に接するようになる。

浜亮太「リングでは体重が武器になっても普段は敵」【豪傑列伝#20】

今回は身長176センチながら体重203キロの超巨漢、浜亮太の登場だ。驚異の肉体を誇る浜の破壊伝説とは…。 これほど規格外なレスラーも珍しい。0・2トンの体重は対戦相手の脅威となるだけでなく、壊れるハズのない物まで破壊してしまう。昨年8月、デビュー前から早くも横浜市内にある道場で事件が起きた。 まさに人間凶器だ。日常生活でも、ふとした瞬間に浜周辺の物は次から次へと壊れていく。パイプイスに座れば、脚がアメ細工のようにグニャリと曲がり、浜が“生息”する合宿所の木製イスも限界が近