ミスターシービーの主戦・吉永正人は〝寡黙な男〟だった
10月28日、快晴に恵まれた東京競馬場は10万人を超える人々の人いきれでムンムンとしていた。一時代を築いた、あのハイセイコー以来の活気がよみがえったようだった。大正12年に『帝室御賞典競走』の名称でスタート。昭和22年から『天皇賞競走』と改められた歴史と伝統を誇るビッグレースの90回目を見に、大勢のファンが繰り出してきたのだ。人々のお目当ては一頭のサラブレッド。その馬は昨年、シンザン以来、実に19年ぶりに四歳クラシックを全制覇(さつき賞、ダービー、菊花賞)し、〝三冠馬〟となったミスターシービーだ。
スタートが切られ、1分59秒3。ものの2分もたたぬ間に、この主役はニューヒーローとして競馬サークルの〝顔〟となった。〝四冠達成〟英雄の誕生。割れんばかりの大歓声が競馬場を包み込んだ。
だが、快挙をやってのけたにもかかわらず、馬上の男はファンの声援にこたえるでもなく淡々とした表情を崩さず、時折、はにかむような笑顔をこぼしただけだった。
吉永正人。10日前の18日に43歳の誕生日を迎えたベテランジョッキーは、勝利者インタビューの席上でも言葉少なにポツリ、ポツリと質問に答えていた。寡黙な男。相撲の世界と似通い、競馬界も旧態依然とした風潮で、立て割り社会独特の排他的面が多分にある。関係者の口は重い。まず、饒舌なジョッキーなどにはお目にかかったことはない。だが、この吉永のような騎手も珍しい。
「ダンスホールの〝壁の花〟のような男で、踊って騒ぐのが好きなわけでなく、隅っこでひっそりと壁にもたれているだけ……」故寺山修司が、その『競馬への望郷』のなかで、こう吉永を評しているが、インタビューで「馬を信用して乗っただけ」を何回も繰り返していう吉永を見ると、決して自分を日の当たる場所に置かない〝日陰の花〟のような男の姿といえる。
自身のこと、家族のこと、余分な話にはいっさい触れない。「なんやつまらん。いつもあんな調子や」遠征してきた関西記者のボヤきが聞こえる。しかし、これが吉永の生き方なのだ。仕事と私生活は全く別、キッチリと一線を引いている。
一見、人間嫌いのように見えるが、むしろ逆でさみしがり屋といったほうがいいだろう。茨城県にある美浦トレーニングセンターのそばに吉永家はあるが、人の出入りが多いのが目立つ。仲間が集まっては飲みまくる。九州は鹿児島男子、無類の酒好き。いまは焼酎一本やり。もっとも、飲んで騒ぐのは周囲の連中だけで本人は、それをサカナに杯を傾けるだけ。人が集まる〝場所〟が好きなのだ。
苦労人に寂しさがどんなものかをよく知っている。先妻をガンで亡くした時、吉永に言葉はなかった。幼い子供3人を抱えての不幸、子供を実家に預けての一家離散である。仕事のほうも勝ち運に見放され、騎乗依頼も激減。それまでやめていた酒におぼれるようになった、という。
この吉永にとって救世主となったのが現夫人のみち子さんだった。競馬記者として吉永と知り合い結婚、前夫人の子供を呼び戻し、さらに一男をもうけ、現在は四児の母として家庭を守る主婦。昔とったキネヅカで『気がつけば騎手の女房』(草思社)なる本を書き下ろしている。その中の一節「吉永さんのような人なら結婚してもうまくやっていけるかもしれない。重なる苦労で培われたものか、生まれもったものなのか、物事に動じない茫洋とした性格は得がたいように思われた」。
ビッグレースを勝っても平素の姿のまま。プレッシャーも全く感じなかったという吉永の性格を明確に捉えているように思える。
〝寡黙な男〟吉永と〝気がついたら騎手の女房〟になっていた吉永みち子さんの二人三脚、いや子供4人を交えての六人七脚は乱れることなく続きそうだ。そして、吉永の活躍も――。
※このコラムは1984(昭和59)年10月30日付、東京スポーツ紙面の「人」を再掲したものです。