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「ウマ娘」でも黄金世代!グラスワンダーという名のジェットコースターを「東スポ」で振り返る

 昨年末で一区切りつけようと思っていた当noteですが、皆さんからの励ましに背中を押され、22年は隔週で、やれるところまでやってみようと走り出してみました。いつ脚元に不安が出るのか、気性難が顔を出すのか、自分としても不安でしたが、気が付けばもう、有馬記念。どうやら無事に完走できそうなのは、ひとえにご愛読いただき、励ましのコメントを寄せてくださった皆さんのおかげです。ありがとうございました。

 年内ラストは、「ウマ娘」でゆったり口調のほんわかキャラながら闘争心と大和魂を秘めるグラスワンダーです。史実では〝栗毛の怪物〟と呼ばれ、スペシャルウィークやエルコンドルパサーと同じ黄金世代。その中でも一番強いのでは?という声もあったほどの馬なのですが、実はこの馬の競走生活は栄光と挫折の繰り返しでした。私のような競馬ファンのテンションを豪快に上げ下げした名馬を「東スポ」で振り返りましょう。(文化部資料室・山崎正義)

怪物体験

 グラスワンダーのデビューは1997年の9月。当時の外国産馬と言えばスピード寄りの馬が多かったのですが、父シルヴァーホークの産駒が中距離でも結果を残していたこともあり、中山の1800メートル戦に出てきます。

 調教の動きが〝確勝級〟でしたから、◎グリグリ(単勝1・5倍)。2着に余裕しゃくしゃくで3馬身差をつけた勝ちっぷりはそれだけでなかなかインパクトがありましたが、もっと驚いたのは乗っていた的場均ジョッキーのコメントでした。

「初めてまたがった時からモノが違うと思った。順調にいけばすごい馬になる」

 この方、慎重で辛口なコメントで知られた人でした。そんな騎手が…というわけで、翌週の本紙にはこんな見出しがつきます。

 で、東京の1400メートル戦を走った続く2戦で、その言葉の意味が分かってきました。どちらも楽勝で、2着につけた差は

 アイビーステークス  5馬身

 京成杯3歳ステークス 6馬身

「おいおい…」

「こりゃ相当じゃないか?」

 当然、暮れのGⅠ・朝日杯3歳ステークスでも圧倒的な支持を受けます。

 当時を知る人が改めて出走馬をチェックすれば分かりますが、このメンバー、決して弱くありません。グラス以外の馬を買った人もいるでしょう。しかし、中団に控えたグラスが、3コーナーで他馬と全く違う勢いで前に上がっていくのを見た時、誰もが「うわわわ…」となりました。

「これは…」

「これは…」

 完勝――

 さすがに持ったままとはいきませんでしたが、初めてしっかりと追われたグラスの繰り出す豪快なフットワークは、私のような素人でもこう感じました。そして、寒い寒い師走の中山競馬場で、周りの人も同じフレーズをつぶやいていました。

「モノが違う…」

 レコードタイム

 スター誕生の予感

「あの言葉を使ってもいいのかな…」

 その言葉は翌日の新聞で見出しになっていました。

 怪物――

 辛口ジョッキーのコメントは、そう呼んでも差し支えないことを表していました。

「今までも強い馬に乗せてもらってきたけど、こんなに安心して乗れる馬はいないよ」

 しかも、管理する尾形充弘調教師によると「ソエ(若駒特有の骨膜炎)が出ていた」というのです。ファンはいきり立ちました。やはり出たのはこの言葉。

「モノが違う」

 年配のファンはこう言いました。

マルゼンスキーの再来だ」

 そう、同じ外国で産まれ、同じ朝日杯をぶっちぎり、「スーパーカー」と呼ばれた伝説の名馬です。8勝8勝という戦績はもちろん、マルゼンスキーに対しても誰もが他馬との性能の違いを感じ、こう言っていたそうです。

「モノが違う」

 それほどの圧倒的な強さを感じた馬に与えられる称号こそ、見出しにあった「怪物」です。グラスの前で言うと、1994年のナリタブライアンは「シャドーロールの怪物」と呼ばれました。ただ、ブライアンはデビュー当初にコロコロ負けており、ファンは〝誕生の瞬間〟に立ち会った気はあまりしていません。その点、4戦4勝で、底知れなさを感じさせた朝日杯のグラスにはそれがありました。似たところだと、オグリキャップが中央入りした後の数戦。そう、芦毛の怪物が見せた他馬とは一線を画す強さにファンは「この馬、どこまで強いんだ…」と身を震わせました。つまり、グラスは

 オグリ以来の背筋ゾクゾクッ

 だったわけです。だから、ファンがいきり立ったのです。また、当時の若い人には、オグリが古馬になり、武豊ジョッキーとコンビを組んだり、有馬記念で劇的な引退勝利を飾ったあたりから競馬ファンになった人がたくさんいました。そういう人、つまり、地方からやってきたオグリが、中央入り後に見せた数戦の驚きを経験していない人にとっては

〝初ゾクゾク〟

 だったのですから、その衝撃度は童貞喪失レベルでしょう。というか、これを知ったら競馬はやめられないのですが、いずれにせよ、それぐらいのインパクト、モノが違う感、怪物感が、グラスにはありました。

「外国産馬だからクラシックには出られないけど」

「NHKマイルなんて楽勝だろ」

「いや、そんなレベルじゃない」

「歴代最強馬かもしれない」

 ワクワクが止まらなかったファン。グラスも、陣営も、心を躍らせていたはずで、まさに前途洋々でした。誰もが、明るい未来しか予感していなかった。波乱万丈といわれる競走生活の序章だなんて、少しも思っていなかったのです。


究極の選択

 当時の3歳外国産馬が春に目指すのはNHKマイルカップ一択。もちろん、グラスもそこを目標にしたのですが、3月中旬、残念なニュースが入ってきます。

 骨折――。ファンがガッカリしたのは言うまでもありませんが、骨折で競走生活を終える馬もいますから、しっかり休ませ、秋を前に復帰のメドが立ったのを知ったときは本当にホッとしたのを覚えています。そして、当初は9月のオールカマーでレースに戻ると伝えられていたはずです。でも、予定が少し狂って、復帰の舞台が10月11日の毎日王冠に変わったことで、とんでもないことが起こります。まずは、的場ジョッキーにとってめちゃくちゃ困る大問題。毎日王冠には、自身が主戦を務めるスーパーホースが出走を予定していたのです。

 エルコンドルパサー

 春、デビューから無傷の5連勝でNHKマイルカップをぶっこ抜いた外国産馬は、怪物とまでは呼ばれていなかったものの、底知れぬポテンシャルを感じさせました。何しろまだ負けていないのです。

 5戦5勝でNHKマイルカップを完勝した馬

 4戦4勝で朝日杯を完勝した馬

「どっちを選ぶんだろう?」

 ファンも関係者も注目した決断。「体が2つ欲しい」が本音だったであろう的場ジョッキーが悩みに悩んだ結果は…

 グラスワンダー!

 ファンはいきり立ちました。

「あんなに強いエルコンドルよりもグラス…」

「やっぱりグラスは怪物なんだ!」

 実はレースの週の本紙には、的場騎手が「骨折で休まざるを得なかった馬と夏を単なる充電にあてていた馬という違いがありますかね。常識的には向こう(エルコンドル)が有利でしょう」と話し、慎重な姿勢だという記事も載りました。でも、ファンはそうは取りません。一流ジョッキーが選択を間違えないのは常識ですし、コメントはこうも取れるのです。

「〝常識的には〟不利だけど、グラスはそれを超えてくる可能性がある」

「それぐらいの怪物!」

 ファンの心理は単勝オッズにしっかり反映されました。

 グラスワンダー   3・7倍

 エルコンドルパサー 5・3倍

 でも、もうお気づきの方もいらっしゃいますよね。そう、この毎日王冠には2頭を上回る支持を得た超スーパーホースが出走していました。

 サイレンススズカ  1・4倍!

 本格化した1歳上の快速馬は、年明けからぶっち切り連発の5連勝で宝塚記念を制していました。

 無敗VS無敗VS今年無敗

 伝説のGⅡ

 競馬場には13万人!

 明らかにGⅠよりも熱気が上だったあの日、ファンは「誰が勝つんだろう」というワクワクと同時に「このうちの2頭が負ける」という信じられない事実が待っていることを胸に、ファンファーレを待ちました。ゲートが開くと、予想通り、サイレンススズカが先頭に立ちます。

 スピード満点

 軽快

 快調

 3~4コーナーの勝負所、その無敵の逃げ馬に向かって、5番手にいたグラスが上がっていった時、大歓声が上がりました。あの日一番だったと言っても過言ではありません。それぐらい、ファンはゾクゾクしました。

「このスズカを…」

「こんなに速いスズカを…」

「捕まえるのか!」

「グラスはやっぱり…」

「怪物なのか!」

 4コーナー手前

 グーンと2番手

 結果は…

 突き放された5着――
 正直、グラスのファンは複雑でした。

「怪物じゃなかったのか…」

 でも、失望、絶望まではいきませんでした。相手は他馬がバテてしまうようなペースで逃げて、最後まで止まらない史上最強の快速逃げ馬なのです。その馬を自分から捕まえにいっての息切れはある意味、仕方ありません。骨折明け、半年ぶりのレースなのですから許容範囲、それどころか「意識的に三分三厘で早めに動いた」というレース後の的場ジョッキーのコメントは、「捕まえられると思わせるぐらいグラスの潜在能力を認めていた」とも言えます。また、こうも振り返っていました。

「スタート直後、隣の馬に2度ぶつけられたし、(競馬場に立つ)タワーの影に驚いてバランスを崩す場面もあった」

 というわけで、ファンは、ひとまず結論を先送りにしました。競走馬というのは休み明けを叩かれて一変することも多々あるため、この先送りは〝競馬あるある〟のひとつです。

「怪物なら次で巻き返すはず」

「巻き返してほしい!」

 マイルチャンピオンシップかと思っていたグラスの次走は、2500メートルのアルゼンチン共和国杯でした。

 ◎が並ぶ中で無印の記者もいるのは、誰もがかすかに抱いていた懸念の表れです。そして、その懸念は、絶好の手ごたえで直線を向き、あっさり先頭に立ったグラスが、残り100メートルでバタバタと外の馬に差されていったとき、むくむくと大きくなっていきました。

「怪物じゃない」

「それどころか…」

「早熟だったんじゃ…」

「もう終わってるんじゃ…」

 毎日王冠直後と違い、ファンは確実に失望していました。しかも、同時に「早熟マイラー説」も流れたのに、グラスが同じ2500メートルの有馬記念に駒を進めたのですから、希望を持つことは簡単ではありません。もちろん、1年前に「怪物」と騒がれたほどの馬ですので、その力が戻れば十分勝負になることは分かっていました。本紙も木曜日にこんな1面を作っています。

 そこには秋の2戦と比べてグラスの体調がアップしていることが書かれていました。しかし、尾形調教師はこうも言っていました。

「あとは内面の問題だけ」

「相手関係じゃなく自身との戦いなんだ」

 これが意味するのは、やはり「終わっているかもしれない」という懸念です。終わった馬は走る気がなくなってしまいます。そう考えれば、最終追い切りで的場ジョッキーがグラスにムチを入れたことは、闘魂注入に他なりません。記事では

「シゴキに近いハードな攻め」

「目一杯の追い切りなどデビュー以来一度としてかけられたことがなかった」

「ましてや2週連続、ステッキが叩きこまれたことなど皆無」

 と記者が書いています。これを好意的にとらえるファンもいましたが、やはり多くの人は「そこまでしないと走る気が戻らないぐらいの状況なんだ」と察しました。記者の印はこんな具合です。

 単勝は4番人気だったとはいえ、希望を抱いている人が決して多くはなかったことは数字が証明していました。オッズはセイウンスカイ2・7倍、エアグルーヴ3・8倍、メジロブライト5・3倍から大きく離された14・5倍。しかも、複勝にいたっては上から8番目です。これは「まともに走ったら勝っちゃうだろうけど、普通に考えれば厳しい」というファン心理をよ~く表していました。だから、3コーナーを過ぎ、4コーナーにかけて、馬群の外をグラスがグ~ンと上がっていったときは、にわかに信じられませんでした。「どうせ止まるだろう」とも思いました。でも、その上がり方が、豪快なフットワークが、1年前に見た姿と重なった瞬間、ファンは思い出しました。体で思い出しました。

 ゾクゾクッ

 背筋が…

 ゾクゾク!

 オグリキャップやトウカイテイオーを彷彿とさせる復活劇に、グラスを信じていた人は狂喜乱舞していましたが、どちらかというと、ボー然としている人が多かったです。前の年、グラスの怪物ぶりに魅了されたものの見限ってしまった人は、ただただ、立ち尽くしていました。

「そりゃそうだよ」

「走る気が戻れば」

「このぐらい当然だ」

「でも…」

「戻ってるなら戻ってるって言ってくれよ!」

 いやいや、馬ですからね(苦笑)。それに陣営だって必死になっていたものの、戻っているかは分かなかったそうですから、下手なことは言えません。信じられなかった自分が悪いのです。でも、やっぱり信じられなかった信じられなかったことが悔しかったというファンが目立った有馬記念でした。でも、そんなガッカリのファンでも、翌日の新聞を見て、めちゃくちゃ元気になったのがあの有馬記念でもありました。何と、的場ジョッキーはレース後、こう口にしたのです。

「いいころに比べるとまだほど遠いと思っていたので能力だけで走った感じ。本当に感心させられる」

 あれだけ強いのに

 国内トップレベルの馬を一蹴したのに

 体調も気力も戻り切っていなかった!?

「バカな…」

「ウソだろ?」

「じゃあ…」

「本当はどれだけすごいんだよ…」

「完全復活したらどこまで強いんだよ!」

 ファンが再び確信しました。1年ぶりに、思い直しました。

「やっぱり…」

「この馬は…」

「怪物なんだ!」

 本紙の見出しにもあの2文字が戻ってきました。

 ファンは翌年に思いをはせます。

 希望のち失望

 失望のち希望

 夢見るは怪物伝説の第2章

 でも、それはまだ前半に過ぎませんでした。

 グラスワンダーの競走生活の

 グラスワンダーというジェットコースター


天気

 復活を遂げた怪物は、年が明け、3月の中山記念を目指しましたが、骨膜炎が出たため、目標を4月4日の大阪杯(当時はGⅠではなくGⅡ)に切り替えます。調教の動きは上々で、陣営からは「有馬の時よりいい」というコメントも出ていましたから、私も楽しみにしていました。しかし、金曜の夕方、自分が勤める新聞に載った「日曜重賞コーナー」の大阪杯の柱を見るとグラスの名前がありません。

「あれ?」

 すぐ下にはこんな記事が。

 枠順が出る前の出走取消――。何かのはずみで目の周りを切ってしまい、縫合手術を受けるハメになってしまったというのです。全治3週間、今後の予定は白紙と書かれているのを見て、心配にならないわけがありません。

「大丈夫かな…」

 だから、5月半ばの復帰戦、京王杯スプリングカップも心配しつつの観戦でした。予定が大幅に狂ったのに加え、久しぶりの1400メートル戦というのも不安材料。そして、やはり2500メートル戦の後ですから、前半はポジションが中団よりやや後ろになりました。ついていけてはいますが、内で揉まれています。

「おいおい…」

「大丈夫なのかよ」

 そんなファンの目に映った衝撃の光景を、私は今も忘れません。4コーナーで外に出したグラス。

 馬場の外

 追い出した瞬間

 ゾク…

 背筋がゾクゾクッ

 体を震わせているうちに…

 ごぼう抜きでした

 一頭だけ別次元でした

「怪物だ」

「やっぱりグラスは怪物だ!」

 確信しました。

「完全復活だ!」

 向かうは安田記念。終面(裏1面)を使ったグラス一色の追い切り速報からも、それは伝わってきました。昨秋以降、「順調さを欠いたから」「まだ本物ではない」ばかりだった的場ジョッキーが、断言したのです。

「ホント、この中間は順調にきたし何の不安もないよ」

 尾形調教師も体調には太鼓判。有馬記念と比較すると…

「追い切りを比較すれば今回の方が数段良い」

 見出し通り、まさに100%。

 いや、ついに100%。

「やっと怪物の100%が見られる!」

 ファンが大興奮し、記者が怪物にひれ伏した馬柱がこちらです。

 単勝は1・3倍。GⅡだった前走が2・1倍なのに、それよりオッズが下がっているのですから、いかに京王杯がすごかったか、そして不安情報がなかったのかが分かります。ファンにはワクワクしかありません。

「ぶっちぎりだ!」

「前走みたいなごぼう抜きでもいいぞ!」

 グラスは中団でした。4コーナーを回り、満を持して追い出します。直線を向き、1番人気らしい正攻法の競馬で抜け出しました。

「いけ!」

「いっけー!」

 ファンは後続との差を広げていくのを確信していました。

 朝日杯という「晴れ」

 骨折という「雨」

 連敗という「大雨」

 有馬記念で「晴れ」に戻ったのに、年が明け、大阪杯の回避でまたもや雲行きが怪しくなったところで見せた京王杯の「快晴」。そして、順調な調整過程。

 ファンはもう、天気の崩れを心配しなくなっていました。

 安心して

 傘も持たずに

 怪物見学

 まさか雷雨になろうとは…

 京王杯で軽くあしらったはずの同期・エアジハードの強襲にあったグラス。断然の人気馬ですから早めに抜けだした作戦は非難されるものではありません。追う立場の気楽さがエアジハードにあったのも確かですし、その後の活躍を見ればこの時点で本格化していたのも間違いありません。着差もわずかにハナ。連対は確保しています。でも、ダメなんです。ファンが期待したのは、そういう普通の1番人気のレースじゃなかった。求めたのは

 完全復活した怪物

 怪物らしいレース

 そんな願望

 そんな希望

 だから失望

「なんだかな~」というガッカリ感を背負って家路についたファン。

 雲一つない快晴の下

 ピクニックに出掛けたんです

 突然の雷、突然の雨

 雨がやんだら、モヤがかかっていました

 ハッキリ見えていたのに

 なんだかボヤけていました

 グラスが

 怪物という称号が


VSエース

 安田記念の後、グラスの次走はなかなか発表されませんでした。暑さに弱い馬なので陣営が慎重に調整を進めた結果なのですが、ファンの気分はスッキリしません。最終的に、予定通りの宝塚記念参戦が発表されたものの、まだ心にはモヤがかかっていました。安田記念の敗戦を明らかに引きずっていたのです。

「既にレースの時点で夏負け気味だった」

「左回りが苦手」

「展開のアヤ」

 さまざまな要因が挙げられていましたが、どれも「怪物」なら吹き飛ばしてくれるようなものばかり。さらにモヤを濃くしたのが、強敵の存在です。うっぷんを晴らすには、高すぎる山がそびえていました。

 スペシャルウィーク――

 言わずと知れた同期のダービー馬にして、黄金世代のエースです。前年秋、菊花賞とジャパンカップはセイウンスカイ、エルコンドルパサーというライバルに譲りましたが、古馬になったこの年、阪神大賞典と天皇賞・春を完勝。すっかり本格化し、先行できるようになったレースぶりには王者感が漂っていました。安田記念をとりこぼすような馬と違い、明らかに日本競馬のど真ん中に君臨していました。

 エースVS怪物

 初対決ですから本来なら〝世紀の一戦〟です。でも、グラスが安田記念を落としたことで

 エースVS怪物(だったはずの馬)

 となってしまったため、正直、そこまでの盛り上がりはありませんでした。メジロマックイーンVSトウカイテイオーほどの興奮には及ばなかったというのが正直なところで、「最強馬決定戦」と呼びきれない感じもありました。おそらくそれは、1週間前に起こった偉業も関係しています。これまた同期のエルコンドルパサーが、ヨーロッパのGⅠを勝っていたんです。

 この年、欧州に長期遠征していたエルコンドルは前の年、ジャパンカップでスペシャルを下しています。つまり、現役最強馬は日本ではなく、海外で走っているとも言えました。スペシャルVSグラスが「最強馬決定戦」とまでいかない感じがしたのは、エルコンドルが国内にいないことが影を落としていたのです。一方で、エルコンドルの存在によって、宝塚よりも、ファンの目は秋に、海外に向いてしまってもいました。スペシャルには「ここを勝って凱旋門賞へ」というプランがあったのです。

「同期のグラスを一蹴して世界へ」

「エルコンドルと同期2頭で凱旋門賞に挑戦!」

 夢がありすぎるストーリーです。だからこそ、VSグラスはややかすんでいました。2頭以外にめぼしい馬はいなかったので一騎打ちは濃厚。印も2頭で断然だったのですが、やっぱり「夢の対決だ!」とまではいかなかった。で、その根底にあるのはやはり安田記念の敗戦でした。大きく尾を引いていた。なんなら、「グラスにはポカがあるかも」「この馬は信用できない」という声も上がっており、オッズも見事にそれを反映していました。

 スペシャルウィーク 1・5倍

 グラスワンダー   2・8倍

 1・5倍側のファンはワクワクしていたでしょう。

「安田記念で負けているようなグラスなんて目じゃない」

「軽くやっつけて」

「凱旋門賞だ!」

 一方で、2・8倍側ファンは、やはり、モヤの中。

「勝ってほしいけど…」

「スペシャルは強いし…」

「怪物じゃないっぽいし…」

「去年まではなんとかなったけど、成長力がイマイチなのかも…」

 単勝はしっかり売れていました。3番人気が15・9倍ですから明らかに一騎打ちでした。でも、信じ切れなかった。怪物ぶりに魅了されてきたファンの中には、怪物ではないかもしれないグラスを信じ切れない人がたくさんいました。馬券的にはハッキリ言って、買いようがありません。スペシャルが2着以下を外すことは考えづらく、グラスから馬連を買おうとしたら相手はスペシャルしかおらず、その配当は2・0倍にしかなりません(当時は馬単も三連複も三連単もありません)から、それこそ単勝馬券を応援で100円だけ買い、後ろ向きな声援を送るしかありませんでした。

「せめて2着」

「3着はやめてほしい」

「これ以上ガッカリさせないでほしい」

 はがれつつあるメッキ、はがれていくメッキにおびえつつ、グラスを見守ったファン。王者らしい正攻法の競馬で4番手を進んだスペシャルの後ろに控えたグラスの手ごたえは決していいようには見えません。3~4コーナーで早々と先頭に立ったスペシャルを追いかける手ごたえも微妙でした。4コーナーを回る時点で、後続は離されつつあったので一騎打ちは濃厚でしたが、グラスファンからしたら「どこまで食い下がれるか」だった。「食い下がってほしい」だった。だから、戸惑いました。直線を向き、的場ジョッキーが追い出すと、グラスの脚が高く上がったのです。朝日杯や有馬記念や京王杯で見せたあの豪快なフットワーク。

 よみがえる記憶

 よみがえる背筋の感覚

 ゾクリ

 ゾクゾクッ

 声が出ませんでした。

 競り勝つどころか突き放したグラスに

 決定的な3馬身

 ファンは困惑しました。

 強いのは分かっていたんです。

 怪物なのですから

 スペシャルに勝ってもおかしくない

 でも、

 だったらなぜ

「どうして安田記念は負けたんだよ!」

「あの失望はなんだったんだよ!」

 心の中で叫びました。

 怒りました。

 そこまでして、やっと、徐々にモヤが晴れていきました。そして、インタビューで的場ジョッキーが「前走、ふがいない負け方で申し訳なかった」と謝っているのを聞いて、目の前にかかっていたモヤは消えていきました。

「そうだよな」

「陣営だって負けるつもりじゃなかったんだもんな」

「俺たちとは違い…」

「陣営はグラスを信じて調整したんだ」

「だからグラスもそれに応えたんだよな」

 そして、改めてリプレーを見ながら、苦笑い。黄金世代のエースを置き去りにし、3着はそのはるか7馬身後ろでした。

「強ぇ…」

「強すぎるだろ」

「怪物だ…」

「やっぱりグラスは怪物だったんだ!」

 直後、心の中で突っ込んでいました。

「知ってたよ」

「知ってたけど…」

「じゃ、安田記念はなんだったんだよ~」

 気が付けば笑顔になっていました。そして心に決めました。

「もう疑うのはやめよう」

「グラスを信じよう!」

 雷が鳴ったって

 雨が降ったって

 晴れるんだから

 雨のち晴れ

 それがグラスなんだから!

 どんな天気になっても驚かないと誓ったファンでも想像がつかないグラスのジェットコースター劇場、まだ続きます。


 怪物の名を取り戻したグラスは秋の大目標をジャパンカップに据えました。当時はまだ外国産馬は天皇賞・秋に出走できなかったので、前哨戦に選んだのは毎日王冠(GⅡ)です。

 そりゃ、これぐらい印もつきますよね(苦笑)。実力はもとより、グラス特有の懸念事項である体調も問題なかったのですから。的場ジョッキーからはこんなコメントが出ていました。

「筋肉の付き具合、馬体の張りとも申し分ない。宝塚記念の時よりずっといい感触だね」

 じゃあ、どんだけぶっちぎるんだよ!と思ったのは私だけではなかったでしょう。単勝は1・2倍。4番手から絶好の手ごたえ。あまり早く抜け出して安田記念のときのように差されてはいけませんから、的場騎手は直線半ばまで追い出しをガマンし、満を持してGOサインを出しました。

「いっけー!」

 声を上げたファン。でも、すぐに声を止めました。突き放せない。しかも、後ろから追い込んできたメイショウオウドウという馬が外から迫ってきていました。

「え?」

「え?」

「おい…」

「おい!」

 勝つには勝ちましたが、ハナ差の辛勝。ファンは「あっ」となりました。

「このパターンだ…」

 そう、グラスワンダーに快晴は続かない。

 雨ではありませんでしたが、曇り。

「怪物…なんだけど」

「怪物…なのに」

 ただ、先ほど書いた通り、もうファンは薄々勘づいていました。

「心配させておいて…」

「次はやってくれるんだろ?」

「ジャパンカップは頼んだぞ!」

 しかし、アクシデントが起こります。グラスは重い筋肉痛を起こし、その後、調整が全く進まなくなるのです。ジャパンカップの出走表に、その名前はありませんでした。

「世界にその名を」

「怪物の名を知らしめるはずだったのに…」

 どこか寂しい思いでレースを観戦したグラスファン。目の前では、エルコンドルの凱旋門賞制覇の夢をゴール前で打ち砕いたモンジューというヨーロッパ最強馬が、宝塚の敗戦で海外遠征を断念したスペシャルウィークに一蹴されていました。スペシャルに声援が飛びます。

「さすがエース!」

「黄金世代のエース!」

 それを聞いたグラスのファンが歯ぎしりをしたのは言うまでもありません。

「グラスはそのスペシャルに3馬身差をつけたんだ」

「本当に強いのはこっちなのに…」

 おそらく陣営も悔しかったでしょう。だから、必死で、死に物狂いでグラスの復調に全力を尽くしました。

 何とか有馬に出したい!

 グラスの強さをもう一度、満天下に知らしめたい!

 思いは届きます。

 そう、グラスは有馬記念に間に合いました。陣営の努力によって、なんとか及第点の動きを見せるまでになったのです。尾形調教師からは強気のコメントが出ました。

「自分の競馬さえできれば負ける気はしない。大丈夫」

 及第点なのに?と思う方もいるでしょう。本紙調教班のジャッジもこうでした。

「格下のパートナーを突き放せなかった」

「迫力と躍動感がもうひとつ」

「何より、明らかに太い」

 でも、陣営からしたらそれで十分でした。昨年だって、このぐらいで勝っているのです。しかも、相手のスペシャルは秋4戦目。上がり目があるとは思えませんし、実際、宝塚で決定的な差をつけています。また、実は陣営は、あることに気付きつつありました。いや、気付いていたのかもしれませんが、口に出すようになっていました。

「ウチの馬は右回りで差し脚の威力が倍増する」

 はい、一部のファンの間では既にささやかれていましたが、陣営は自分たちを、そしてグラスを鼓舞するかのように、強烈なデータを持ち出したのです。

 右回り無敗!

 右回り全勝!

 古馬になっての3回の敗戦、4歳の毎日王冠とアルゼンチン共和国杯、5歳の安田記念はすべて左回りの東京競馬場。そう考えればこの秋の初戦、毎日王冠が薄氷を踏む勝利となったのも説明がつきます。

「普通の状態で…」

「右回りなら…」

「スペシャルには負けないんじゃ…」

 普通の競馬ファンですらこうなったのですから、そのジェットコースター人生に気付いていたグラスファンにはもっと確信がありました。

 毎日王冠辛勝の「曇り」

 ジャパンカップ回避の「雨」

 だったら次は「晴れ」

 雨のち晴れ

 雨のち怪物!

 さあ、グランプリです。


4センチ

 90年代最後の有馬記念には、近年まれに見る好メンバーが揃いました。

 グラスとスペシャルだけではありません。前年の天皇賞・春の覇者で有馬記念でも2着したメジロブライト、この年の菊花賞の1、2着であるナリタトップロードテイエムオペラオー、さらに黄金世代の遅れてきた大物ツルマルツヨシ…前述の通り、スペシャルが秋4戦目だったこと、グラスが順調さを欠いていたことで、2頭以外の馬券も大いに売れました。宝塚では単勝10倍以下が2頭だけだったのに対し、この有馬では、メジロブライトとナリタトップロードも6倍台で続きました。それだけ力差を感じていないファンが多かったのですが、グラスのファンに迷いはありません。

「信じるだけ」

「信じ続ければグラスは応えてくれる」

 信じ切れず、昨年の有馬や今年の宝塚のような後悔はしたくない。最後の最後で思いっきり叫び、応援するためにも迷わず馬券を買いました。本当に不思議な馬です。何度も何度も心配させ、何度も裏切ったのに、どんどんファンが増えていく。ファンも不思議な気持ちでした。

 心配ばかりさせられて

 何度も裏切られたのに

 どんどん好きになっていく

 グラスワンダーはそういう怪物でした。ファンは今度こそ、雨の後の晴れを、快晴を大きな声で応援するつもりで中山競馬場に向かいました。では、そんなファンに後押しされたグラスとスペシャルの単勝オッズはどうなったのでしょう。

 グラス   2・8倍

 スペシャル 3・0倍

 はい、グラス派以外も、こうジャッジしたのです。

「まともに走ればグラスの方が強い」

「怪物が、怪物らしい走りを見せれば勝つ」

 拠り所になったのは右回り無敗のデータと、やはり、宝塚記念でしょう。

 3馬身――

 何度も言いますが、競馬においては決定的です。

 グラスファンは自信を持っていました。

 普通の競馬ファンも冷静にそこを見ていました。

「埋まらないだろう」

「あの差は埋まらないはずだ」

 しかし、天才がその差を埋めました。引退レースで宝塚の借りを返すべく、スペシャルウィークの武豊ジョッキーは、グラスを真後ろでぴったりマークしたのです。グラスが後方待機策でしたから、位置取りとしてはほぼ最後方。最後の直線が短い中山競馬場ということを考えればかなりのリスクに映りましたが、そこまで徹底しなければ勝てないと武豊ジョッキーは判断したのでしょう。なぜなら、相手がグラスだから。

 怪物だから

 です。

 的場ジョッキーもマークされているのは気付いていました。マークが得意な騎手だからこそ、よ~く分かっていました。だからなかなか動かなかったのですが、3~4コーナーの勝負所に差し掛かってはさすがにもう待てません。スペシャル以外のメンバーも強いのです。動かないと間に合わない。何より、動かないで負けるなんて、出走させるまで体調を戻してくれた陣営に申し訳がないと思ったのでしょう。馬群の外目、「いくぞ」とグラスを促しました。固唾を飲んで見守るファン。

「くるか…」

「どうだ…」

 グーンと上がっていくグラス

 高く脚を上げた大きなフットワーク

 背筋のゾクゾクととも確信しました。

「晴れだ」

「雨のち晴れ」

「怪物だ!」

 中山の直線を、グラスが駆け上がってきます。

「いけ!」

「いっけー!」

 叫びました。

 去年の有馬

 今年の宝塚

 信じ切れなかった2戦のうっ憤を晴らすように叫びました。内で粘る馬もいたのに、ゴールに向けて、一歩ずつ、一歩ずつ、グラスが先頭に近づくのに合わせ、一緒に声を出せる喜び。怪物と同化できる喜びに浸りながら絶叫しました。

「いけ!」

「いけ!」

「いけ!」

 最高でした。

 快晴でした。

「あっ!」

 先頭に立った瞬間がゴールでした。

 でも、その瞬間、外から黒い馬

 スペシャルウィーク!

 長年、競馬を見てきたファンは顔を見合わせました。

 背筋に冷たいもの

 汗

 いや、雨

 晴れのち雨

「やられた…」

「差された…」

 長年、見てきたらこそ分かる勢いの違い。

 上回っていたのは明らかに外でした。

「ダメだ…」

 天才による怪物退治を悟ったファンは、場内に流れるリプレーをボー然と眺めていました。

 ゴール前

 スローモーション

 外からスペシャル

 かわす

 かわした

「だよな…」

 そう思った瞬間、画面が止まったその時、目を疑いました。

「え?」

「え?」

「グラス?」

 なんと、明らかに勢いはスペシャルなのに、その瞬間だけゴールの一瞬だけグラスのハナが前に出ているように見えるのです。どよめき、ざわめき。そして、グラスのファン、スペシャルのファンが全く同じことを口にしました。


「ウソだろ…」

 絶望していたグラスのファンは、むくむくと再浮上してきた希望にすがりました。

 晴れのち雨が

 雨のち晴れ?

 でも、まだ信じられません。そこに向こう正面から、武豊ジョッキーが戻ってきました。ウイングランのように手を挙げています。周りから歓声が起こります。天才が間違えるわけがない。

「やっぱりダメなのか…」

 雨のち晴れ

 でも、スローモーションで見るとやっぱりグラスが残しているように見える…。

「どっちだ」

「どっちだ」

 晴れなのか

 雨なのか

 武豊ジョッキーがスペシャルウィークとともに地下馬道へ消えていった瞬間、電光掲示板の一番上に「7」という数字が点灯しました。

 晴れ!

「グラス…」

「グラスだ…」

「グラスワンダーだ!」

 叫んだ直後、へなへなとしゃがみ込んだ人もいました。

「心臓に悪いよ…」

「どうしてこんなに…」

 そう、グラスワンダーというジェットコースターは疲れるのです。泣いたり、笑ったり、落ち込んだり、叫んだり。酔ってしまう人もいたでしょう。目が回ってしまう人もいたでしょう。でも、降りることができません。怪物によるこのジェットコースター、癖になるのです。しかも、今回は、いつもと違ったゾクゾクも与えてくれました。それはグラスの走りに対するゾクゾクとは別のもの。ゴール直後に感じたもの。

 強い馬同士の真っ向勝負が繰り広げられたときの

 歴史に残る名勝負を目の当たりにしたときの

 とんでもないものを見たときの

 競馬の面白さに対するゾクゾク…

「すげぇ」

「グラスも」

「スペシャルも」

「競馬ってすげぇ!」

 雨のち晴れ

 まばゆいばかりの太陽

 降り注いだ競馬という喜び

 ファンはそれを演出してくれたサラブレッドに感謝しつつ、でも…と思いました。

 黄金世代のエースと怪物

 その差はたった4センチ

 2500メートル走って4センチ

 空を見上げてお天道さまにツッコミました。

「どっちも晴れで良かったんじゃ…」

 あれだけ怪物の勝利を願っていたグラスのファンでさえそう感じた名勝負を経て、残念ながら敗れたスペシャルウィークはターフを去ります。残された怪物はどうするのか、私は翌日の紙面を待っていました。

 来年に関する記述にたどり着く前に苦笑いしたのは私だけではなかったでしょう。驚いたことに、グラスの体調は100%ではなかったと書かれていたのです。

「それでも勝った…」

「どんだけ怪物なんだよ」

 そして、現役続行を確認した私に飛び込んできたのは、期待していた通りの予定でした。まずは宝塚記念で前人未到のグランプリ4連覇を目指す。そして尾形調教師はこう口にしていました。

「うまく春を越せば…」

 はい、その先にあるものは黄金世代の夢でした

 エルコンドルが果たせなかった

 スペシャルも抱いた

 それを残された怪物がつかむ

 グラスワンダーというジェットコースターが目指す先は、そう…

 凱旋門賞!


 今まで聞いたこともなかった「ミレニアム」という言葉が飛び交い、2000年がやってきました。グラスの始動は3月下旬の日経賞(GⅡ)。的場騎手は「目標は先だから、まだ馬体も立派だし、八分ぐらいの状態」と言っていたものの、海外遠征を見据えているほどの馬です。メンバー的にも断然でした。

 単勝は1・3倍。でも、ファンは、3~4コーナーの手ごたえで、グラスが今年もグラスだということをまざまざと思い知らされたでしょう。押しても押しても動かない。あの走りが出ない。

「まただ…」

 晴れのち雨

 いや、2着でも3着でもない6着ですから、かなりのザーザー降りでしたが、翌日の紙面を見て、ファンの心の中で、その雨は少しだけ小降りになりました。

 陣営が調整ミスを認めていたのです。もともと有馬記念もプラス12キロで、過去最高体重だったのですが、今回はさらに18キロ増。的場ジョッキーが「重かったね」という通り、〝動けない体〟だったわけです。

「だったら仕方ないか」

「絞れたら復活するでしょ」

 なので、続く京王杯スプリングカップに出てきたときの体重には驚きつつも少しホッとしました。

 マイナス20キロ!

「減り過ぎだろ!」とツッコミつつも、前年の有馬からはプラス2キロです。

「さあ、仕切り直しだ」

「頼んだぞ!」

 ファンは知っています。

 グラスの得意技を

 雨のち晴れを

 結果は…

 豪雨――

 雨雲は晴れるどころか、9着という惨敗で、ますます厚くなってしまいました。

「グラス…」

「どうした…」

「いったい何があったんだよ…」

 陣営の気持ちも同じでした。レース後、的場ジョッキーは絞り出すように振り返ったといいます。

「道中はそんなに悪い感じはしなかったけど、いざGOサインという時の反応がいい時とは全然違う。体はスッキリしたけど、やっぱり何かが足りない」

 尾形調教師からは、一昨年の有馬前と同じ、このコメントが出ます。

「気持ちの問題があるのかもしれない」

 というわけで、記事の見出しには衝撃的な2文字が…

 はい、尾形調教師からは「今後のことは進退も含めてオーナーと相談します」という言葉も出ていたのです。現場としては宝塚、そして凱旋門賞を目指したいが、既に種牡馬になることも決まっている馬に無理はさせられません。経歴への傷、何より肉体的に何かがあっては遅いわけで、無事に牧場に送り返すのも大事な仕事だと分かっているからこそ、陣営からこういった話が出るのです。血を残すのがサラブレッドの宿命のサラブレッドには、このような引退パターンは決して珍しくはありませんから、ファンも「仕方ないかな」と思いました。

「普通なら引退か…」

「普通なら無理はさせないよな…」

 なのに、「でも…」と思ってしまったファン。なぜなら、グラスは普通じゃないのです。怪物…しかも、復活する怪物なのです。このジェットコースターは下がった後に、上がるのです。

「もう1回…」

「走ってくれないかな…」

「そうしたら復活も…」

 ダメもとだったからこそ、グラスが宝塚に向かうと聞いたときは嬉しかった。そして、調教の動きが変わってきたことに、ファンは雨がやむことを予感しました。

 尾形調教師が言っています。

「やっと走れる状態、覇気が戻ってきたのは確かだね」

 さらに、もうひとつ、スパイスが。調教にも乗っていましたが、陣営はグラスに刺激を与えるため、乗り替わりを決断したのです。指名されたのは、前年の関東リーディング、そして凱旋門賞でエルコンドルを2着に導いた蛯名正義ジョッキー。

「変わるぞ…」

「またまたグラスが復活するぞ!」

 ファンも記者も分かっていました。この怪物は普通の状態にさえなれば、普通に力を発揮すれば負けません。

 集まった◎。舞台は、前年、スペシャルウィークに決定的な3馬身差をつけた時と同じですから、ファンも馬券を買いました。年が明け、3連勝で天皇賞・春を勝ったテイエムオペラオーの1・9倍に迫る2・8倍の2番人気。

「オペラオーは本格化してる」

「安定もしてる」

「でも、グラスが本気を出せば」

「復活すれば敵じゃない」

「復活してくれ」

「怪物よ、戻ってこい!

 そう願った人がいかに多かったかは、あの宝塚の歓声が証明していました。3コーナー手前、中団に控えていたグラスが、大本命オペラオーの直後にすーっと上がっていったときのファンのボルテージはあのレースで最も高く、おおおお!というボリュームは、あのレースで最も大きかった

「きた!」

「やっぱりきた!」

 日経賞

 京王杯

 雨

 雨

 ときて、さらにこの日の阪神競馬場も雨

 でも、晴れるんです。

 雨のち晴れのグラスワンダー

 下ったら上がるジェットコースター

「いけ」

「いけっ!」

「いっけー!」

 ゾクリ…

 ゾクゾクッ

 期待通りの背筋の寒気にファンは確信しました。蛯名ジョッキーも確信したそうです。

「これは楽勝だ」

 でも、直線の入り口で異変を察知しました。最後は無理をしませんでした。

 怪物を牧場に返すために

 夢を怪物2世に託すために

 正直、最悪の展開もよぎりましたから、無事に種牡馬になれて本当に良かった。本当に、最後の最後まで、ハラハラドキドキさせてくれました。改めて振り返っても、あのジェットコースターは本当に心臓に悪かったです。

 ゾクリ…

 ゾクゾクッ

 今でも思い出すだけで背筋が震えます。

 でも

 忘れられません

 あのスリル

 怪物という名のあのスリルをもう一度

 そう願って

 今日も私たちは競馬場に向かいます。

 ありがとう。

 お疲れ様でした。


異名

 私は「怪物」という異名を持つ馬に共通点があると思っています。

 芦毛の怪物・オグリキャップ

 シャドーロールの怪物・ナリタブライアン

 栗毛の怪物・グラスワンダー

 3頭の強さはまさに怪物だったものの

 3頭とも無敵ではありませんでした。

 でも、無敵級の馬より人気がある。

 なぜか。

 この怪物3頭は

 もがき

 苦しみ

 それをファンに見せて

 そのうえで復活してくれたからです。

 競馬界の「怪物」はもがく。

 それを見て人間も共にもがき、苦しみ

 「怪物」と喜びを分かち合うのでしょう。


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