もしあの補強がなければ……西武の監督を引き受けていたと思う【石毛宏典連載#11】
現役固執は若さゆえの勘違いだったかもしれない
1994年11月3日、私は球団からの監督就任要請を保留。2日後の5日に固辞することを伝えた。理由は現役を続けることを決めたからだ。
監督要請を受けた時点でプレイングマネジャー(選手兼任監督)という選択肢はなかった。二足のわらじが通用する甘い世界ではない。現役か、監督か…。どちらかを選ばなければいけないと思っていた。結論は「監督の話は今後も来るかもしれない。でも、現役は今しかできない。ここで辞めたらもう二度と現役には戻れない」――。
実はここまで現役に固執したのには伏線がある。ちょうど、この1年前のことだ。93年、ヤクルトとの日本シリーズに3勝4敗と敗れた後、現役引退を考えた。両膝の故障や腰痛などを抱えながらのプレーも苦しくなってきた。年齢も37歳。もう1年、プレーして辞めようという気持ちを固めていた。
そんな時に球団は私の定位置・三塁を本業とする外国人選手を獲得した。メジャー通算10年で130本塁打をマークしているマイク・パグリアルーロだ。球団が、もう年齢的に衰えてきた石毛の代役も用意しておかないといけない、と考えるのは当然のことだ。しかし、当時の私は怒りに震えた。もう1年間、精一杯プレーしてユニホームを脱ごうと思っているのに、なぜ私の出場機会を奪うような補強をするのか。レギュラーを奪われてたまるか。34歳の助っ人との競争の末、私は三塁の定位置を死守した。
この一連の流れもあって、私は「まだまだ現役でできるじゃないか」と思ってしまった。今となれば、若さゆえに勘違いしてしまったかな、と思うこともある。もし、あの補強がなければ私は94年のシーズンで引退して西武の監督を引き受けていたと思う。ただ、この運命のいたずらも私の人生のワンシーンだ。
球団からは「選手としては契約しない」と通達されていたので私は取得していたFA権を行使して移籍先を探すことになった。FA宣言をして、他球団との交渉が可能になると、すぐに根本陸夫さんから電話があった。西武の管理部長だった根本さんは93~94年にダイエー(現ソフトバンク)の監督を務めた後、94年オフからフロントでチーム強化のために尽力していた。私にとっては入団1年目の監督で、球団が変わっても“オヤジ”と慕っていた人物だった。
根本のオヤジさんは開口一番「お前、本当に西武を出るのかよ」と驚いた声を出した。私が「はい」と答えると「お前が西武を出るとはな。移籍先の当てはあるのか」。「まだ何も決まってません。これからです」「そうか…」。この時はここで電話を切った。しばらくして再び根本さんから連絡があり「ダイエーに来ないか」と誘っていただいた。11月26日の交渉でダイエーに入団することが決定。12月13日に福岡市内のホテルで入団発表が行われた。背番号は「0」。「泥まみれ汗まみれになりながら前向きに生きていきたい」とゼロからの再スタートを誓った。
私の引退を決して認めなかった根本陸夫さん
新天地への移籍を決心した私は1年ほど交際していた女性にプロポーズした。「オレの仕事を手伝ってほしい」――。実は私には2度の離婚歴があった。これは若くて未熟だった私の不徳の致すところ。もう結婚はいいかな、とも思っていた。
しかし、14年間、お世話になった西武を飛び出してダイエー(現ソフトバンク)に移籍するにあたって様々な不安があった。西武で築いた生活の基盤をすべて捨てて新天地・福岡に行かなければいけない。私自身も公私ともにゼロからの再スタートを切る覚悟を決めていた。プロ野球選手として最後まで存分に働きたい。できるだけ野球に集中したい。そんな決意もあって彼女に私を支えてほしいとお願いした。
彼女は航空会社の国際線客室乗務員として第一線でバリバリ仕事をしていた。そして、一人娘だった。彼女もご両親も結婚を承諾してくれた。ハワイで挙式し、2人で福岡での新生活をスタートさせた。
さらに、私は専属トレーナーを雇った。宮崎・都城西から外野手として西武に入団。その後、トレーナーに転身した山尾伸一だ。当時は個人的にトレーナーと契約するというケースは珍しかったと思う。1月の自主トレから春季キャンプ、開幕後は遠征まですべて同行してもらい私の体のケアをしてもらった。とにかくダイエーでもう一花咲かせたい。できることは何でもやるという覚悟で臨んでいた。
キャンプでは私たちベテラン組は基本メニュー以外は自由だった。ただ、この時のダイエーの内野のポジションはすべて埋まっていた。私は「どこでもいいからレギュラーを奪う」と精力的に汗を流した。開幕直後は指名打者での出場が多かった。4月中旬まで打率3割4分6厘と好スタートを切ったものの、4月14日の近鉄戦で左手首に受けた死球による痛みが長引き、約1か月の長期離脱。復帰後は思うような結果が出ずに徐々に出場機会も減っていった。7月中旬からはスタメン出場もほとんどなくなり、代打要員としてベンチに座っている時間が長くなっていた。
これは私の野球人生の中で初めての経験だった。高校、大学、社会人、西武とすべて1年目からレギュラーで試合に出ていた。グラウンドに立つことなくベンチに座っている時間が非常に長くつまらないものに感じた。最終的に52試合の出場で打率2割、11打点、1本塁打という不本意な成績で移籍1年目のシーズンを終えた。
シーズン終了後、根本陸夫さんに「もう辞めてもいいですか?」と進退を相談した。「もう試合にも出られなくなっている。悶々とした気持ちでベンチに座っているのはつらい」という自分の思いを根本さんに伝えた。
しかし、根本さんは「球団が契約するというのなら、喜んで契約しろ」と私の引退を頑として認めなかった。私は2億円から野球協約で定められた減俸制限幅を超える50%ダウンの1億円で契約を更改し、現役を続けることになった。
※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。