独立リーグ創設は誰も歩いたことのない道だった【石毛宏典連載#1】
1980年代、西武ライオンズは10年以上にわたる黄金時代を築き上げた。リーグ優勝11回、日本一8回。そのチームの中心にはいつも「ミスターレオ」と呼ばれたリーダーがいた。彼の名は石毛宏典。ユニホームを脱ぐとスーツ姿で独立リーグ設立に奔走する。球界を代表するスター選手がなぜ球界改革に立ち上がったのか。自身のルーツから新リーグ創設という大きな挑戦の真意…、そして、こよなく愛する野球への熱い思いを激白する。
野球が国民的スポーツであることに変わりはない
皆さんは野球界の現状や将来をどう考えているだろうか? おそらく「今のままで大丈夫」「未来は安泰だ」と思っている方は少ないだろう。私も同じ考えだ。2004年には近鉄とオリックスの球団合併に端を発した球界再編問題が表面化し、10年、11年オフは横浜ベイスターズ(現DeNA)の売却問題が球界を揺るがした。プロ球界ですら球団経営が難しい時代になっている。
アマチュア野球に関してはさらに深刻だ。景気の低迷に伴い企業の経営も悪化。社会人野球チームの廃部が相次ぐという根本的な問題に直面している。プロ、アマ問わず私が知っている球界関係者も大きな危機感を抱きながら、必死に打開策を模索している状況だ。
でも、私は悲観する必要もないと思っている。一時の人気に陰りが見えているとはいえ、野球が国民的スポーツであることに変わりはない。地域の活性化など社会に貢献する力、可能性を十分に秘めているはずだ。そうした力を発揮できれば野球界にも新しい勢いが出てくると信じている。
もちろん今のままでは何も変わらない。“変化”が必要だ。私は05年4月に開幕した独立リーグ「四国アイランドリーグ」(現四国アイランドリーグplus)を創設した。本格的に動き出したのは03年秋のことだった。当時、私のプランを聞いた人は「そんな夢みたいな話、絶対にうまくいくはずがない」と口を揃えた。それでも私は野球界を変えるため、野球を志す少年少女のためにも必要な改革だと思って走り始めた。
その後も北信越BCリーグ、関西独立リーグの立ち上げに協力した。現在も苦しい経営状況が続いており、様々な課題を抱えながらのリーグ運営を強いられてはいるものの、毎年のように日本のトップリーグでもあるNPB(日本プロ野球組織)に選手を送り出し、交流試合なども盛んになってきた。当初は夢物語と笑われた独立リーグの存在意義が認められてきたのだ。今はリーグ運営には関わっていないが、少しは野球界に貢献できたかなと思っている。
この独立リーグ創設は誰も歩いたことのない道だった。私たちは次から次へと発生する課題、時にはまったく予想もしていなかった事態を乗り越えなければならなかった。命の危険を感じたこともあった。でも、今までの概念から飛び出して新しいことに挑戦するというのはこういうことだろう。道路標識もレールもない「標なき道」を歩くということだ。
思えば私の人生も「標なき道」だったのかもしれない。現在、私は「石毛野球塾」という野球教室を主宰し、東京や愛媛・松山を中心に全国各地で小中学生を指導している。将来のために正しい技術、身のこなしを身につけてもらうとともに野球の裾野を広げていきたいというのが狙いだ。
ただ、熱心に練習に取り組む子供たちの姿を見つめながら、ふと不思議に思うことがある。「いつの間に私は野球がこんなに好きになったのだろう」。実は少年時代の私は野球が好きではなかったからだ。
のどかな大自然が野球選手の体を作ってくれた
北総台地と呼ばれる、なだらかな丘に水田や畑が果てしなく広がっている。春から夏にかけては緑一色に覆われ、秋になれば一面に実った稲穂が黄金色に輝いていた。私が生まれた千葉県旭市の北部はこんなのどかな土地柄だった。
九十九里に面した市の南部は漁業が盛んだったのに対して、私の故郷でもある北部は房総半島屈指の穀倉地帯で農業が主産業。私の実家も農業を営み、稲作とトマトやキュウリなどの野菜栽培で生計を立てていた。
この豊かな自然が野球選手としての体の下地を固めてくれた。私たちは毎日のように自由奔放に野山を駆け巡り、森に行けば木登りやターザンごっこ。体は小さかったが、足も速かったし、何をやっても友達よりも上手にこなすことができたと思う。
私たちの時代はこうして自然の中で遊ぶことで体の使い方を身につけていたのだろう。道や野原は舗装されておらずデコボコ。そこを全速力で走っているうちに体勢を崩してもすぐに立て直すバランス感覚が養われるし、木登りやターザンごっこでは腕力はもちろん、どうやって体重移動すれば楽に動くことができるかを覚える。もちろん、当時はそんなことを意識しているはずもないが、夢中で遊んでいる間に体の使い方を“習得”していたのだ。
そして、もう一つ忘れられないのが畑仕事の手伝いだ。収穫期などの農繁期になると学校も休みになり、私たちも農作業を手伝う。とにかくこれが嫌だった。束ねた稲を何束も担いで運ばなければならないし、穂の先が首元に突き刺さって痛かった。家では両親が朝から晩まで畑や田んぼで働いているので、家の掃除やまき割りも私の仕事だった。嫌で嫌で仕方なかったけど、今となってはこうした手伝いも野球のためになった。
残念ながら、今の子供たちはこうした機会がない。少し体勢を崩せばそのまま転んでしまう。「雑巾を絞るようにバットを握る」と教えようとしても雑巾の絞り方を知らない。腕力強化や「てこの原理」を使って力を上手に伝えることを体で学べるまき割りもやったことがない。時代が違うのだから仕方がないのだが、今は野球に限らずスポーツをするための体の土台づくりから指導する必要があるようだ。
私が野球を始めたのは10歳ぐらいのころだったと思う。地域ごとにスポーツ少年団があり、時々、試合をしていた。ただ、私自身が野球に興味を持っていなかった。東京オリンピックが開催された1964年ごろに一気にテレビが普及したものの、映っていたのはオリンピックやプロレスだった。野球中継をテレビで見たという記憶がない。
ちょうど野球アニメ「巨人の星」を放映していたこともあって、周囲では野球選手に憧れる友達もいた。でも、私にとって野球はたくさんある遊びの中の一つだった。
そんな私が中学に進学して野球部に入部するのだが、その理由も野球をやりたかったからではなかった。
※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。