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組織に才能を閉じ込めるな【野球バカとハサミは使いよう#30】

宣銅烈の日本球界入りは球団の柔軟な対応力によるもの

 近年、韓国のプロ野球から日本球界に移籍する選手が増えている。現在ではオリックスの李大浩が代表格だろう。韓国球界で2度の3冠王に輝いただけあって、その打撃は剛柔併せ持った一級品。来日1年目の昨季は打点王を獲得し、今季もここまで好成績を維持している。

 そんな韓国組のパイオニアといえば、1995年オフに中日入りした宣銅烈ソンドンヨルだろう。宣は1年目こそ不慣れな環境に苦しんだものの、2年目以降は本領を発揮した。150キロ超のストレートと高速スライダーを武器に中日の絶対的クローザーとして大活躍。特に97年は、あの大魔神・佐々木主浩と並んで当時の日本記録となる年間38セーブを挙げ、最多セーブ投手のタイトルを獲得した。

韓国の至宝だった宣銅烈

 この宣の成功は、当時の韓国球界の柔軟な対応力のたまものでもあった。来日前の宣は、韓国球界のヘテ・タイガースで11年間活躍し、通算146勝、132セーブを挙げた、まさにスーパーエース。防御率に至っては年間0点台を5回も記録し、通算でも1・20。「韓国の至宝」と呼ばれるにふさわしい投手であった。

 従って、そんな宣が日本球界入りを希望したとき、ヘテ球団は当然困惑した。「韓国の至宝」をみすみす放出したら、我が球団はどうなる、韓国球界はどうなる、ファンの反発も予想できる。当時はまだ日本球界への移籍の前例がなかったこともあり、当初のヘテは宣の移籍を慰留していたのだ。

 ところが、宣の決意があまりに強いことが分かると、ヘテは柔軟な対応に出た。ここまで突出した才能を持つ投手が現れた以上、過去の前例や常識だけで考慮するのでなく、第三者の意見も取り入れてみたらどうか。そこでヘテは宣の移籍の賛否を問うため、ファンを対象に世論調査を行い、その結果、8割が移籍に賛成していることが分かった。こうしてヘテは、宣の移籍を許可したのだ。

中日の宣銅烈

 こういったヘテの姿勢は、サラリーマン組織にとっても非常に参考になる極意だ。世の中は広い。時として既存の枠組みには収まり切らない優れた才能に出会ったり、過去に前例がない画期的な企画を提案されたりすることもあるだろう。そんなとき、一番つまらないのは組織の慣例にとらわれて、その才能や企画を抑えつけることだ。

 だから時と場合によっては、いったん頭を柔軟にして、これまでと違う観点から判断することも重要だ。常識や慣例の枠は、往々にして自分たちが勝手に決めつけているのだ。


東大進学から切り開いた球団幹部への道

 プロ野球ドラフト会議の名司会者であったパンチョ伊東こと故伊東一雄氏にとって、最後のドラフトとなったのが1991年だ。この年のドラフトでは、普通なら関心が薄いであろう千葉ロッテのドラフト8位・小林至投手に一風変わった注目が集まった。それは小林が、プロ野球史上3人目となる東京大学出身の左腕だったからだ。

 ご存じのように、東大といえば日本の最難関大学であり、その硬式野球部は東京六大学リーグ最弱というイメージで知られている。実際、東大のエースであった小林も大学通算成績は0勝12敗で、チーム自体も六大学新記録の70連敗を記録。当時の小林はストレートの最速が120キロ前後であり、変化球にも見るべきものがなかったため、ロッテは話題作りで指名したのだろうと思われていた。

ロッテの小林至

 実際、小林は投手としてはプロで通用せず、一軍登板が一度もないまま2年で引退した。しかし、その後コロンビア大学経営大学院を修了し、MBAを取得すると、スポーツビジネスの分野で活躍。さらにソフトバンクの球団取締役として様々な要職を歴任するなど、その明晰な頭脳を生かして、現在もなおプロ野球界に携わっている。

 したがって、人生の戦略的には、小林の選手経験は意味があったと言える。そもそも小林は根っからの戦略家なのか、東大を目指した動機も、野球絡みの戦略でこれが圧巻だった。

 高校時代の小林は東京六大学で野球をしたいという夢を抱いていたのだが、自分の投手としての実力では、たとえ早稲田や慶応などに入ったとしても、他に好投手が多くいるため、ベンチ入りできないだろうと考えた。

 しかし、東大なら自分でもエースとして神宮のマウンドに立てるかもしれないと思い、そこから1年間の浪人、つまり猛勉強を重ねて東大に合格。すると、狙い通りに東大のエースの座を射止め、それがプロ入りにまでつながったのだ。

 こういった戦略的な生き方はサラリーマンにも参考になる極意だ。なんらかの夢や目標を達成するためには、ばか正直に真っすぐ進めば良いというものでもなく、時に冷静な自己分析をしたうえで、自分にとって一番効果的な戦略を企てることも必要だ。

 もちろん、小林のように企てた戦略をきちんと実行する努力も重要なのだが、間違った方向に努力を続けても非効率的だろう。どうせ苦しい努力の道のりが待っているなら、正しい方向に歩きたいものだ。

ソフトバンクの仕事始めで王貞治会長と鏡開きした小林至取締役(2011年1月、ヤフードーム)

山田隆道(やまだ・たかみち) 1976年大阪府生まれ。京都芸術大学文芸表現学科准教授。作家、エッセイストとして活躍するほか大のプロ野球ファンとして多数のプロ野球メディアにも出演・寄稿している。

※この連載は2012年4月から2013年9年まで全67回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全33回でお届けする予定です。

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