〝生卵事件〟でも揺るがなかった王貞治監督の執念【石毛宏典連載#12】
私は王さんの勝負に対する執着心、頑固さ、強さに驚くばかりだった
私はプロ野球選手として4人の監督のもとでプレーした。西武では根本陸夫さん、広岡達朗さん、森祇晶さんにお世話になった。そして、ダイエー(現ソフトバンク)で王貞治さんと出会った。
王さんは私が移籍した1995年からダイエーの指揮を執り、就任5年目の99年に初優勝。退任する2008年までリーグ優勝3回、日本一2回という強豪チームに育てた。私が在籍した2年間はまだ低迷期で王監督に対する風当たりも非常に強かったが、王さんは揺るぎない信念で采配を振るっていた。
忘れられないのが96年5月9日、大阪の日生球場で起こった「生卵事件」だ。就任1年目の95年は5位に終わり、2年目も開幕から最下位に沈んでいた。関西にはダイエーの前身でもある南海時代からの熱心なファンが多く、低迷が続くチームに対して厳しい声がぶつけられることも多くなっていた。この日も試合前から王監督や球団代表を痛烈に批判する横断幕が掲げられるなど騒然とした雰囲気だった。
私はベンチ入りしていたものの出場機会はなかった。試合は近鉄に2―3と逆転負け。これで4連敗。9勝22敗で首位・日本ハムとは10ゲーム差、5位の西武とも5ゲーム差と引き離された。試合後、ホークスファンの怒りが爆発した。
スタンドからは発炎筒が投げ込まれ、ホークスファンが陣取る左翼外野席からは王監督に対する「辞めろコール」が乱れ飛んだ。私たちが乗ったバスも興奮したファンに取り囲まれ、立ち往生。そして、一斉に生卵が投げつけられた。バスのフロントガラスに命中して割れた生卵の汚れはいくらワイパーを動かしても落ちなかった。私たちは汚れたフロントガラスを見つめながら、何とも言えない重苦しい気分で宿舎に戻った。こんな状況にも王監督は動じなかった。弱音の一つも出そうなものだがグチ一つこぼさない。それどころか「勝つことしか、こういう騒動を収める方法はない」とキッパリと言い切った。シーズン中もひたすら「勝つんだ」「優勝するんだ」と繰り返していた。私は王さんの勝負に対する執着心、頑固さ、強さに驚くばかりだった。この執念が通算868本塁打という偉大な記録をつくり、後のダイエー、ソフトバンクの飛躍につながったのだろう。
引退を考えている時、私は根本さんにこんな話をされた。「王や長嶋が立派な監督だと思うか? 彼らはユニホームを脱いで、そのまま監督になったんだ」。王さんも長嶋茂雄さんも巨人の監督に就任した当初は結果が出ずに苦しんだ。特に長嶋さんは就任1年目の75年は最下位に終わっている。あれほどの実力や求心力があっても、監督業というのは思うようにはいかないもの。だから、おまえも将来のことを考えてしっかりと勉強をしておかないといけないぞ、という助言だった。
4人の監督に様々なことを教えてもらった16年間のプロ生活。とうとう現役のユニホームを脱ぐ時がやってきた。
根本さんに説得されて現役を続けた理由
2012シーズン、日本ハム・稲葉篤紀、ヤクルト・宮本慎也が2000安打を達成し、ソフトバンク・小久保裕紀がリーチをかけている。私はプロ1年目から14年間連続で100安打以上を打って2000本も視野に入っていたが、最後のダイエー(現ソフトバンク)での2年間は出場機会も少なく通算1833安打で現役を引退した。
今では「あともう少しだった。惜しかったな」という気持ちもあるけど、現役の時はほとんど数字を気にしなかった。シーズンが終わって「今年はこういう数字だったんだな」と思う程度だった。
ダイエー移籍1年目を不本意な成績で終えた私は引退する覚悟を決めていた。しかし、根本陸夫さんは「ベンチに座っているのがつまらないとか感情的な気持ちに流されるな」と私の考えを一蹴した。「ほとんどの人間は一度、ユニホームを脱いで外から野球の勉強をする。でも、お前はベンチの中で監督の采配やコーチ、選手の動きを見ることができるんだぞ。今年1年間、ベンチの中で野球を勉強した方がいいじゃないか」。根本さんに説得される形で私は現役を続けることを決めた。
年俸は2億円から半分の1億円になった。契約を更改した後の会見では「1億円も下げられて、まだ現役を続けるんですか」と挑発的な質問も受けた。胸の中では怒り心頭だったが、私はできるだけ冷静に「40歳になって1億円ももらって野球ができることを喜びたい」と答えた。
背番号も西武時代の「7」に戻し、春季キャンプでは外野用グラブも用意した。現役を続けるからには、どのポジションでもいいからレギュラーを奪う覚悟だった。しかし、2年目もベンチを温める日々が続き、7月28日のオリックス戦が一軍最後の出場となった。
シーズン序盤からチームは低迷しており、来季を見据えて若手を一軍で試すために私は二軍に落ちた。もう引退することは既定路線となっており、二軍戦に出場する必要もなかったが、私は監督に言われれば試合に出場し、全力でプレーした。
他球団にも同じような立場のベテランが二軍におり、その選手から「何で、二軍戦でそんなに一生懸命やるんですか? もう意味がないでしょう」と言われたこともある。私は「お世話になった野球に対して不義理をするようなことはしたくない。どうやって野球人生を終えるか。これは大事なことだと思う。最後の最後まで真摯に向き合う」と正直な気持ちを吐露した。いつもベンチからヤジを飛ばしていた、そのベテラン選手も数日後には試合に出場して必死にプレーしていた。
シーズン終了後、再び根本さんに引退の意思を伝え、了承してもらった。10月12日に引退会見。引退セレモニーはなかった。もし2年前に西武の監督を引き受けて引退していれば応援していただいたファンにお礼をいう機会もあったかもしれない。そう思うと寂しさを感じることもあるが、これも私の野球人生だ。私は指導者として新たな道を歩み始めた。
※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。