本場のベースボールを知るために米国にコーチ留学したものの…【石毛宏典連載#13】
米コーチ留学は勉強になった?「NO」
私の指導者としての第一歩はベースボールの本場・米国からスタートした。
もともと引退後、米国内を“放浪”するつもりだった。野球というスポーツが生まれたアメリカ合衆国というのはどんな文化、慣習の国なのか。人々とベースボールがどう関わっているのか。各地の球場などを巡り、その空気を肌で感じたいと思っていた。今後も野球に関わっていく以上、そのルーツを知る必要があると考えていたのだ。
すでにパンチョ伊東こと伊東一雄さんと一緒に渡米する約束もしていた。伊東さんは元パ・リーグの広報部長。球界きってのメジャー通だったこともあり、テレビ番組などで米大リーグの解説もしていた。
その計画を根本陸夫さんに打ち明けると「ダイエーホークスの肩書で行け」という。理由は「石毛という男はダイエー球団が将来のことを考えて米国に行かせている人物だということをアピールできる。現地での対応も変わってくることがある」というものだった。結局、球団の名刺を持って、コーチ留学という形で渡米することになった。
1997年2月、妻と1歳になったばかりの子供とともに日本を離れた。ロサンゼルス・ドジャースにコーチ留学することになったので、ロス市内のセンチュリーシティーという町にマンションを借りた。海外での生活に様々な不安もあったが、妻は国際線の客室乗務員だったこともあって英会話もできたし、異国での生活も楽しんでくれていたようだ。妻の存在は何よりも心強かった。
私は2月に渡米すると、まずドジャースのキャンプ地となるフロリダ・ベロビーチに1か月半ほど滞在。4、5月はドジャースに同行した。この時、同球団に所属していた野茂英雄やエンゼルス・長谷川滋利が異国の地で奮闘していた。6月からは傘下のマイナーリーグを回った。6月はメジャーに最も近い3A、7月はその下となる2A、8月はさらに下の1Aと1か月ごとに拠点を移しながら、米国野球の実情を見て歩いた。
現地のアパートを借りての自炊生活。電気炊飯器を持ち歩いて各地を転々としたものの、白米の調達には苦労した。メジャーの本拠地は大都市で白米を販売している大規模スーパーもすぐに見つかったが、マイナーリーグの本拠地となると小さな町が多い。白米を扱っている店がなかなか見つからない時もあった。中華料理店を見つけて、白米を売っている店を教えてもらうということもしながら生活した。
9月以降は独立リーグやドミニカ共和国のベースボール・アカデミーも視察した。最高水準といわれる米大リーグのシステムをすべて見ておきたかった。人材発掘、育成…。特にコーチングについては大きな興味を抱いていた。しかし…。渡米してほぼ1年が経過したころ、ドジャースのオーナーだったピーター・オマリー会長に会った。彼は私に「勉強になったか」と尋ねた。私は「NO」と首を振った。
指導方法は日本のほうが上だと確信した
私は米国の指導者といえば与那嶺要さんをイメージしていた。ハワイ生まれでウォーリーの愛称で親しまれた与那嶺さんは現役時代、米国仕込みの闘志あふれるプレーを日本に伝えた。引退後も監督、打撃コーチとして30年間、7球団を渡り歩いた。私も1983年から2年間、西武で情熱あふれる指導を受けた。
97年にロサンゼルス・ドジャースにコーチ留学する際、米国には与那嶺さんのように熱意あふれるコーチがたくさんいると心を躍らせていた。存分に指導法や技術論を学ぶことができると思っていたからだ。
しかし、現実は違った。ある日、練習が始まっているのにコーチ数人がトランプで遊んでいた。私が「選手を教えなくていいのか」と声をかけると彼らは「いったい何を教えるんだ」と答えた。そして、私が「米国のコーチは情熱を持って選手を指導すると聞いていた」と言うと、1人が卑屈な笑みを浮かべながら言った。「何年前の話だ。今は選手の給料が高くなりすぎてコーチが教えることなんてできない。下手に教えてケガをさせたら賠償問題だ。我々の仕事は気分良くプレーしてもらうことだけ。ベビーシッター(子守り)だよ」。がくぜんとした。
マイナーリーグに至ってはマニュアルで完全管理されていた。メジャー球団が打撃、守備、走塁、投球フォームのマニュアルを作成。マイナーのコーチはマニュアル通りに指導することが義務づけられている。当然、その指導方法が合う選手もいれば、合わない選手もいる。適応できなければ切り捨てられてしまうという非情なシステムだ。
ドジャース傘下2Aのサンアントニオに同行している時、私は監督のロン・レネキーと打撃理論をぶつけ合った。お互いに譲らず、最後に彼は「この選手をお前の考えで指導してみろ」と言った。私は1人の白人選手の指導にあたることになった。190センチを超える長身でパワーはありそうだったが本塁打は1、2本。打率も2割前後だった。マンツーマンで指導を行うと打率は3割を超えて、本塁打も増えた。すると、他の選手も「俺も教えてくれ」と私のところに来るようになった。私と議論したレネキーは現在、ミルウォーキー・ブルワーズの監督を務めており、昨年は就任1年目でチームを29年ぶりの地区優勝に導いた。
やはり指導は個々の特性に応じて行うもので、この点では日本の方がたけていると私は確信した。帰国直前にお礼のためにドジャースのオーナーだったピーター・オマリー会長を訪ねた時も、日本の野球の方が優れた部分がたくさんあるという考えを伝えた。オマリー会長は不快な表情を浮かべていた。米国が一番と信じていたのだから面白くなかったはずだ。
ただ、オマリー会長は「このまま米国に残ってマイナーリーグのコーチにならないか」と誘ってくれた。うれしかったが、すでにダイエー(現ソフトバンク)から「来年は二軍監督」という辞令が出ていたので、米国を離れた。
※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。