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もし阪急が当たりクジを引いていたら、プリンスホテルで支配人をやっていたかもしれない【石毛宏典連載#5】

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プロ入り条件は「西武以外ならプリンスホテル残留」

 1980年11月19日から千葉県旭市の実家で2日間にわたる家族会議が開かれた。議題は私の進路だ。

 プリンスホテルに入社して2年が経過し、私は再びドラフト会議での指名可能選手になった。社会人でも2年連続で日本代表として国際大会に出場。特に2年目の8月に開催された第26回世界アマ野球選手権では最強軍団・キューバに敗れて2位に終わったものの、私は打率3割6分1厘、3本塁打、7盗塁という数字を残した。守備でも11試合中10試合で遊撃手として先発出場。複数のプロ球団が攻・走・守を兼ね備えた大型ショートとして非常に高い評価をしてくれるようになった。東海大の原辰徳とともに、この年のドラフトの目玉選手という立場になっていた。

巨人にドラフト1位で指名された東海大の原辰徳(1980年11月、東海大学)

 ただ、私自身はまだプロ野球に進むことを決めかねていた。アマチュア野球の指導者という夢もあったし、プリンスホテルで仕事をしてホテルマンという職業にも興味を抱いていた。

 さらに、社会人野球の主要大会である都市対抗で、納得できる結果を残していないことも胸に引っかかっていた。1年目は予選敗退し、東芝府中の補強選手として出場。2年目は予選を突破し、プリンスホテルの仲間とともに本大会に出場できたが、2回戦敗退。もう一度、都市対抗で雪辱したいという気持ちもあった。プリンスホテルでホテルマンをしながら野球を続けてアマ野球の指導者を目指すという将来設計が私の頭の中では最有力だった。

 しかし、周囲が騒がしくなった。父は野球に全く興味がなかったものの、知人からプロ球団が高い評価をしているという報道があったことを聞いたのだろう。父は「ちょっと家に帰ってこい」と私を呼び出し、家族会議を開いた。

 その席で父は「お前が大学に行く時に多少の金がかかっている。プロに行って契約金をもらって家に少しは恩返ししろ」と単刀直入に言った。確かに両親や兄に無理をしてもらったからこそ私は駒大に進学できた。大学時代の恩師・太田誠監督にも相談した上で、条件付きでプロ入りをOKした。「お世話になった西武グループにプロ球団がある。そこが指名してくれたら、プロに行く。それ以外だったらプリンスホテルに残る」。父も承諾してくれた。

 そして、私の運命を決めたドラフト会議が11月26日に行われた。西武と阪急(現オリックス)が1位指名し、抽選の結果、西武が交渉権を獲得した。私は約束通り、すぐに西武に入団することを表明した。

1980年のドラフト会議で石毛氏は西武の1位指名を受けた

 もし阪急が当たりクジを引いていたら、私は今頃、どこかのプリンスホテルで支配人をやっていたかもしれない。プリンスホテル野球部の1期生は幹部候補生として大きな期待をされていたこともあって、同期の仲間は西武グループの重役やホテルの支配人になっているからだ。

 野球がそれほど好きではなかった少年が、とうとうプロの世界に足を踏み入れることになった。

 大恩人で父親的存在だった根本陸夫さん

 4月下旬、都内の教会で1999年4月30日に亡くなった根本陸夫さんの十三回忌が行われた。夫人、ご子息の家族やごく親しい関係者だけが出席した会に私も参加させてもらった。

 80年のドラフト会議を前にプロ球団から指名されることが確実だった私は西武以外ならプリンスホテルに残ると決めていた。当時、西武の監督だった根本さんが抽選で当たりクジをつかんでくれたおかげでプロ入りすることになった。現役引退を考えた時も根本さんに相談して最終決断をした。その後の米大リーグへのコーチ留学、ダイエー二軍監督就任と節目節目で面倒を見てもらった。常に私にとって、よりよい道を用意してくれた大恩人だ。

西武入団発表での根本監督(左)と石毛氏

 根本さんは捕手として近鉄に入団し、6年間で現役生活を終えるとスカウト、コーチや広島監督を経て78年に西武の前身のクラウンライターの監督に就任。81年まで西武の監督を務めた。西武、ダイエー(現ソフトバンク)では球団フロントとしても手腕を発揮し、周囲を驚かせる大型トレードや新人選手獲得で大胆な補強を連発。「球界の寝業師」「根本マジック」という言葉で表現されることもあった。

 私が在籍した14年間で西武はリーグ優勝11回、日本一8回という驚異的な成績を残した。その間、チームを指揮した広岡達朗さん、森祇晶さんという2人の監督は根本さんが招聘した人物だ。さらに、最初は田淵幸一さんをはじめ実績のあるベテランを他球団から獲得してチームを強化。それと並行して補強や長期ビジョンに基づいたドラフト戦略を駆使して世代交代という難題も見事にクリアした。こうして根本さんは10年以上にわたる黄金時代の土台をガッチリと固めたのだ。

 根本さんが亡くなった99年にはダイエーが福岡移転11年目にして初めて優勝した。根本さんは93年からダイエーでチームづくりに尽力していたものの、その成果を見ることなく他界してしまった。

 でも、ベンチには根本さんの遺影が置かれ、リーグ優勝決定時には何人もの選手が高々とその遺影を掲げた光景を見れば、根本さんの功績は一目瞭然だろう。

西武黄金時代を支えた広岡達朗監督、根本陸夫管理部長、森祇晶コーチ(右から、1982年)

 私は根本さんに対して観察眼が鋭く人の能力や適性を見抜く力がすごいという印象を持っている。チームに不足しているものは何か。必要なパーツは何か。こうしたことをしっかりと見極めて適した人材を補強する。いい選手を集めるだけでなく適材適所ということを徹底できていたから強いチームをつくることができたのだと思う。

 西武、ダイエーという新興球団を強豪チームに成長させるという道を切り開いた根本さんだが、思えば私のプロ野球人生も根本さんに道筋をつけてもらったようなものだ。言葉では語り尽くせないほどお世話になった。迷惑をかけてしまったこともある。プロ入りしてからはまさに父親のような存在だった。

 だから、私は根本さんのことを「オヤジ」と呼ばせてもらっていた。

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いしげ・ひろみち 1956年9月22日、千葉県旭市生まれ。市立銚子から駒大、プリンスホテルを経て81年に西武ライオンズにドラフト1位で入団。8回の日本一、11回のリーグ優勝に貢献。新人王(81年)、シーズンMVP(86年)、日本シリーズMVP(88年)、ベストナイン8回、ゴールデングラブ10回、14年連続球宴出場と輝かしい成績を残す。94年オフ、ダイエー(現ソフトバンク)にFA移籍。96年に引退。ダイエー二軍監督、オリックス監督を歴任。その後、四国アイランドリーグを創設するなど各地の独立リーグ設立に尽力。現在は野球教室「石毛野球塾」の塾長を務める。著書は「石毛宏典の『独立リーグ』奮闘記」(アトラス出版)。

※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。

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