2年秋に打撃改造してから高校通算35本塁打に自分でもびっくり【田中幸雄 連載#3】
夏の甲子園でPL学園と再戦も思い知らされた力の差
1984年春の選抜大会で涙をのんだ我が都城は、同年夏に再び聖地への切符をつかんだ。宮崎大会決勝ではライバルの高鍋に1―0の辛勝。4強入りした選抜から3か月ほどで雪辱の機会を得た。
ただ、当時は2年生。チームとしての目標や夢は全国制覇という壮大な終着点があったものの、自分にはまだそこまでの余裕がなかった。主戦メンバーの先輩たちと一緒になって同じ目標や夢を口にしながらも、どこか遠慮があった。2年生のレギュラーは自分と三遊間コンビを組んでいた2人だけ。なかなか「我」を出せずにいた。
それでもがむしゃらになって目の前のハードルを乗り越え、結果もつかみ取る。特に変な欲もなくひたすらシンプルな意識だけを貫いたことが、たまたまいい方向へ転がっていったのかもしれない。
迎えた夏の甲子園は不思議な巡り合わせで、再びPL学園と対峙する。今度は3回戦。しかし、8月17日に行われた一戦は春と打って変わって1―9の大敗に終わった。明らかな力の差を見せつけられ、レベルの違いを思い知らされた。
PL学園で2年生ながら投打の主軸になっていたKKコンビ、桑田真澄と清原和博はやはり別格だった。桑田は試合途中からの登板だったが、その投球には前回対戦した選抜時よりさらに磨きがかかっていた。彼は主に真っすぐとカーブだけだったが、キレも良く、制球の良さは一級品。高校生離れした投球術で、僕ら都城ナインは手玉に取られてしまった。清原にも一発を浴びるなどKKの活躍にしてやられ、またしても都城はPL学園の牙城を崩せないまま聖地を去った。
振り返れば、悔しい思いもしたが、2年生のシーズンは私にとって躍進の年になった。レギュラーの座を射止めて春夏連続で甲子園出場。川野昭喜監督をはじめ、1学年上の先輩にも恵まれた。本当に感謝しかない。
高校野球では夏が終わると3年生が去り、新チームとなる。そこで私にとってのターニングポイントが訪れた。しかもダブルで。一つは新チームで主将に任命されたこと。もう一つは私をレギュラーに抜てきしてくれた川野監督の退任だ。これからは自分がチームを引っ張っていかなければいけないという意識を持った一方で、恩師の退任には寂しさを覚え、とても複雑な心境になった。
だが、そんな環境の変化によって私の打撃が驚異的な飛躍を遂げることになる。そして、今まで想像すらしていなかった“プロ入りの扉”をこじ開ける結果へとつながっていった。
2年秋の打撃改造を機に本塁打量産の強打者に変身
1984年秋、新チームになって都城野球部の雰囲気はガラリと変わった。名将・川野昭喜監督が退任。2年生の私をレギュラーに抜てきしてくれただけでなく、春夏連続で甲子園に連れていってくれた恩師の退任には一抹の寂しさも感じたが、前に進まなければならない。川野監督からバトンを受けて、新たに私の師となったのが社会人チームを率いた経験もある森田監督だった。
ある日のこと、新監督から「バッティングフォームを変えてみたらどうだ」と提案された。それまで私はミートの技術はあったが、打球を引っ張って遠くに飛ばすことができなかった。
入部当初は172センチだった身長は、このころになると182センチまで伸びていた。ただ、長身の割には、ノーステップでどちらかというと小ぶりの打撃。「体も大きいし、もっとステップを生かして反動を使うような打ち方をしたほうが、ボールは飛ぶ」との助言を受け、その通りに打撃フォームを大幅に変えた。
するとどうだ。途端に打球の飛距離が飛躍的に伸びた。それまで学校のグラウンドの左翼にあるネットに打球を当てることすらできなかったが、そのネットを軽々と飛び越えて裏にある民家の屋根への着弾もしばしば。これには自分でも、びっくりだった。
それまで本塁打を一本も打ったことがなかったが、打撃改造を機に両方向へアーチを量産するようになった。これ以降、練習試合も含めて高校通算35本塁打を放ったのだから劇的な変わりようだった。内角を打つポイントも覚え、打球を引っ張れるようにもなり、さらに打撃が楽しくなった。
新チームでは主将を拝命し、打順も4番を任された。より一層の責任感を持って臨んだが、翌春の選抜大会は出場できずじまい。3年生として最後の夏の大会で甲子園出場に望みをかけた。県大会2回戦では前監督の川野監督率いる宮崎実業(現日章学園)と対戦。私もバックスクリーン越えの本塁打を放つなど文句なしの快勝だった。
だが、結果から言うと3回戦で日南高に敗れて涙をのんだ。言い訳になってしまうが、実はこの日、試合前の練習中にボールが頭部に当たり、フラフラの状態で試合に臨んだ。そのせいか試合ではまったく打てず、普段通りのプレーができなかった。
日本ハム入団後に聞いた話によると、いいところなしに終わった日南戦でもプロのスカウトさんたちはビデオカメラを手に私のプレーをチェックしていたそうだ。当時は何も知らされていなかったが、強肩と粗削りながらパワーあふれる打撃力を買われて「九州で一、二を争う遊撃手」と各プロ球団から熱視線を浴びたらしい。自分が知らない間にプロ野球選手への道が出来上がりつつあったのである。
各球団の評価はなんと「九州で一、二を争う遊撃手」
実は小学6年生の時、卒業文集に「将来の夢はプロ野球選手」と書いていた。何がなんでもプロ野球選手に――というほどでもなく、まあ行ければいいかな…ぐらいの願望だった。それから6年。高校3年生になって夢が現実のものとなろうとしていた。
都城高校で2年生ながら正遊撃手となり、春夏連続で甲子園に出場。それでも卒業後の職業として「プロ野球選手」を意識したことはなかった。野球を続けるにしても、社会人などのノンプロ。性格的に「絶対に成り上がってやる」というタイプでもなく、プロ野球は別世界のことだった。
そんな考えに変化が生じたのは、3年生になって迎えた最後の宮崎大会中のことだ。結果的にこの1985年は3回戦で涙をのむのだが、自分のプレーをチェックするためにプロ球団のスカウトが大挙して宮崎まで足を運んでいたことを知り、秋になってドラフトを前に「もしかしたら、プロに行けるのかな」と思うようになっていた。
当時の報道によれば、学校には南海、広島、西武、巨人などの数多くのスカウトが視察に訪れていたそうだ。各球団の評価は「九州で一、二を争う遊撃手」。自分で“裏取り”をしたわけではないが、そう聞いた。
自慢っぽくなってしまうが、評価に関するエピソードはもう一つある。“球界の寝業師”の異名を取り、当時は西武の管理部長をされていた根本陸夫さんが、私のことをドラフトの「秘密兵器」として考えてくれていたというのだ。そんな自覚はなかったが、知らないところで、今まで夢の世界だったプロ野球界からの評価がどんどん高まっていたのである。
1985年11月20日、運命のドラフト会議が午前中から始まった。学校側も私がプロ注目選手として報道されるようになったことで、指名された場合に備えて会見場を準備していた。ただ当日は学校の授業が通常通りだったため、テレビ中継などでドラフト会議の様子をリアルタイムで知ることはできなかった。
そのため割と冷静ではいられたが、授業中に突然流れた校内放送で一気に胸が高鳴った。
「3年●組の田中君…授業の途中ですが至急、職員室まで来てください」
周りのクラスメートたちも自然とざわめく。
「おい、幸雄がドラフトで指名されたんじゃないのか」
「ついに幸雄がプロに行くぞ」
あえて私は感情を押し殺し、無表情のまま席を立って職員室へと向かった。
※この連載は2019年10月1日から12月27日まで全49回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全18回でお届けする予定です。