〝男道〟を地で行く都城野球部、3年になるまで女子と会話もできず【田中幸雄 連載#2】
猛練習と往復26キロの自転車通学で心身が鍛えられた
都城高で1年秋に川野昭喜監督から肩の強さを見定められ、主戦メンバーの練習に加えられるようになった私は、正遊撃手の座をつかんだ。しかもチーム内でレギュラーの1年生は自分を含め三遊間の2人のみ。特待生でもない自分がこんな早い段階から抜てきされるなど想像もしていなかったので、ちょっと不思議な気分だった。
正直にいえば、特待生を含めて同級生に「こいつはすごいな」と思える選手はいなかった。そして何より先輩たちを怒らせたり、嫉妬心を抱かせるようなことは絶対にできなかったので、喜びの感情をあらわにすることもなく黙々と練習に励んだ。
厳しい練習を繰り返しながら、チームの主軸の面々からふるい落とされまいと懸命に汗を流し続けた。余裕などまるでない。練習もとにかくキツかった。大会直前になると授業が午前中のみに免除され、午後は日が暮れるまで野球漬け。地獄のような練習が終わるとランニングも待っていた。「監督のシゴキ」といわれ、延々と走らされるメニューが終わると毎日ヘトヘトになっていた。
本業であるはずの授業でも、体が心底疲れ果てていたせいで寝ていることがほとんどだった。今でも時々、地元に帰って顔を合わせた当時の学友たちからは「野球部員はいつも教室でボールを磨いているか、寝ているかのどっちかだった」と笑われる。まあ、それぐらい野球一筋になっていたということだろう。もっといえば、学校には勉強ではなく野球をやるために行っていた。
余談だが、私は自宅からの自転車通学だった。部員の3分の2ぐらいは寮生だったが、先輩後輩の上下関係が日々の生活でも続くことを考えると寮生活はやっぱり嫌だった。だから自宅からの通学を選んだわけだが、片道13キロもの距離を自転車で往復するのは苦行そのもの。田舎道で夜の帰路は街灯がなく、人の気配もない。気が小さい私は何度となく心が折れそうになったが、それでもめげずに雨の日も風の日も日々の練習を続けながら往復26キロの“チャリ通”を3年生になって入寮するまで貫いた。足腰が強靱になったことに加え、精神面もかなり鍛えられたと思っている。
入部した当初、80人ぐらいいた1年生はあまりのつらさに耐え切れなくなって次々と辞めていき、結局最後まで残ったのは10人強。ふるいにかけられながら中心メンバーとして自分でも、よく残っていたなと思う。「根性のあるヤツだけを残す」という川野監督の方針に耐え切った選手によって構成されていたのだから、強かったのも当然だったといえる。
実際、当時の都城の実力は宮崎県内でも抜きんでていた。県内だけでは相手が見つからず、練習試合なども強豪校との対戦を求め、熊本や鹿児島など九州各地を渡り歩いていたほどだった。選抜切符を手にするだけのことはしていた。それでも夢の甲子園の舞台は、たとえようのない大きなインパクトとなった。
センバツ出場できつい目を向けていた女子たちが一変
文字通り、野球漬けの毎日だった。都城野球部の練習が地獄のようにきつかったことだけが理由ではない。都城は共学だったが男女交際は禁止。おまけに野球部の先輩たちには「女子と話すな」という妙な不文律まで言い渡されていて、それも厳守しなければいけなかった。チャラチャラしているヒマがあったら野球に取り組めという意味もあったのだろう。
このころは最上級生の3年になるまで先輩たちの顔色をうかがっていたこともあり、学校内の女子と会話をしたことがなかった。そういう背景も手伝って野球部員は女子生徒からの印象が悪く、黄色い声援も期待できなかった。
だが、そんな“男道”を地で行くような野球部員が学校内で脚光を浴びる時がやってきた。九州大会を制してつかみとった2年春の選抜大会への出場だ。自分も夢にまで見た憧れの甲子園。しかもレギュラーメンバーの中で2年生は正遊撃手の自分を含めて2人だけ。先輩ら周囲の目もあって感情を表に出すことはできなかったが、内心は喜びでいっぱいだった。
この時、チームには絶対エースとして後に南海(現ソフトバンク)にドラフト1位で入団する田口竜二さんがいた。たまにお会いすると「幸雄のおかげで勝てたんだよ。大事なところで活躍したのは俺と幸雄だよな」と褒めていただく。そのたびに「そんなことはないですよ」と首を横に振るのだが、田口さんの実力は高校生離れしていた。
結果として1984年の選抜は準決勝で敗れてしまうのだが、辛酸をなめさせられた相手はあのPL学園だった。相手エースの桑田真澄と投げ合い、延長11回でサヨナラ負けしたものの、その姿には味方である僕らも奮い立たせられた。最後は涙をのんだとはいえ、田口さんがいなければ、きっと夢の舞台には立てていなかっただろう。
それまできつい目を向けていたはずの学内の女子たちも多くが甲子園での力投を見て、すっかり田口さんのとりこになっていたのもうなずける。伝え聞いたところによれば、段ボール箱いっぱいのファンレターが全国から田口さんのもとに寄せられていたそうだ。
一方の私は「2番・遊撃手」として全試合にスタメン出場。多くの人たちがスタンドから声援を送る中、憧れ続けた聖地に立てるなんて本当に夢のようだった。確かに要所で適時打やヒットエンドランを決めていたことで田口さんいわく「活躍した」のかもしれないが、いかんせん守備がヘタだった。持ち前の肩の強さがあったことで送球は良かったものの、捕球ミスで失策を重ねていた。
左手が非常に不器用だったのだ。当時の映像を見返すと体幹が弱く、守備の際も腰高で基本がまるでできていないことが分かる。打つことは好きだったが、守備には興味がない。当時は、そんな選手だった。
「KKコンビ」旋風を巻き起こしたPL学園と互角の戦いの末に…
1984年春、初めての聖地ではベスト4まで進んだ。高校2年の春、選抜大会で甲子園の夢舞台に立った我が都城高校は、4月3日の準決勝であの難敵と対峙した。PL学園だ。
当時は「KKコンビ」として旋風を巻き起こしていた同学年の桑田真澄と清原和博が在籍し、世の中は“PLフィーバー一色”に染まっていた。しかし、僕らだって負けるわけにはいかない。ここまで勝ち上がってきた以上、踏み台にはされたくなかった。
その日の甲子園は高校生の試合とは思えない熱気に包まれていた。徹夜組も大勢いたそうでスタンドは超満員。大半のお目当ては第1試合の都城対PL学園だった。しかし、周囲の盛り上がりとは対照的に不思議と緊張感はなかった。とにかく負けたくない。相手がPLだろうが、KKだろうが、これまで通り自然体で戦って勝つだけ。宿舎を出発する直前、ミーティングで川野昭喜監督が発した一語一句に僕ら都城ナインは奮い立った。
その通りだ。俺たちは必ずPL学園を倒して決勝に駒を進め、栄光の大紫紺旗を必ずや宮崎に持ち帰るんだ――。誰からともなく威勢のいい言葉が飛び交い、球場に向かうバスの中で我々は改めて一致団結した。
下馬評ではPL学園の圧勝と目されていた。前日までのテレビのスポーツニュースや新聞報道などを見ていれば、相手の方が圧倒的有利であることぐらい、高校生でも分かっていた。普通にやれば、ほぼ負ける。ただ、番狂わせを起こしてやろうという意識の方が上回っていた。全員がそう思っていたからこそ、ふたを開けると予想外の展開になった。
先発マウンドに立ったエースの田口竜二さんはイニングを重ねるごとに気合が入っていった。相手先発は桑田。この準決勝は両エースの投げ合いとなり、ついに延長戦へ突入。都城は桑田から幾度となく好機をつくっていたが、本塁が遠かった。
0―0のまま延長11回裏、PL学園の攻撃で運命の分かれ道がやって来た。二死一塁から打席に立った桑田が打った平凡な右飛を先輩がまさかの落球。ボールが転々とする間に一塁走者は一気に生還し、勝負は決した。
0―1で無念のサヨナラ負け。歓喜に沸くPL学園ナインを横目に、僕ら都城の面々は誰もがその場に崩れ落ちた。勝負に“たられば”はない。どちらかが勝って敗れるものだ。それは分かっていても悔しかった。
圧倒的優勝候補のPL学園と互角に戦い、最後の最後までしのぎを削りながら、あと一歩及ばなかった。僕らはこの悔しさを自信に変えようと心に誓い合った。
※この連載は2019年10月1日から12月27日まで全49回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全18回でお届けする予定です。