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高級クラブをはしごしても最後は野球の話に戻った〝野武士〟集団【石毛宏典連載#6】

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守備は私が上!!原辰徳に強烈ライバル心

 1981年のプロ野球が開幕した4月4日、私は「1番・ショート」で先発出場した。デビュー戦だ。敵地・川崎球場で行われたロッテ戦。開幕戦とあってマウンドにはエースの村田兆治さんが立っていた。「まさかり投法」と呼ばれるダイナミックなフォームでパ・リーグを代表する右腕。その村田さんから4打数3安打1打点、1本塁打、2盗塁。プロの世界でやっていけるかどうかという不安もあったが、この一戦で「プロでも飯が食っていけそうだ」と思った。

 この年の西武は田淵幸一さん、土井正博さん、山崎裕之さん、大田卓司さん、東尾修さんといったベテランが多かった。まさに「野武士」という雰囲気の人が多く、何事も豪快だった。遠征中は門限に宿舎に戻っている人はほとんどいなかった。午前中にクリーニング済みのユニホームが配られるものの、誰も起きてこないため廊下にズラリとユニホームが並ぶということもあった。

西武ライオンズ「 LEGEND GAME 2024」にはかつての〝野武士〟が集った。左から東尾、山崎、田淵、土井、大田(2024年3月、ベルーナドーム)

 私もよく先輩に飲みに連れて行ってもらった。食事をして、高級クラブをはしご――。最後にもう一軒となり、必ずここではいつの間にか野球のことを語り合っていた。遊んでいても最後は野球に戻る。常に野球のことが頭にあったからだろう。この野球談議は新人の私にとって大いに勉強になる貴重な時間だった。

 こんなムードの中、監督の根本陸夫さんも選手の自主性に任せる部分が多かった。例えばキャンプの全体練習は昼過ぎに終了。このため午後は私たち若手が練習を存分にできる環境だった。私は東海大から巨人に入団した原辰徳とともに新人の目玉として注目され、何かと比較されていた。原とは世界アマ野球選手権の日本代表チームで一緒にプレー。守備に関しては私の方が上という自負もあり、原に負けるものか、という意識もあった。先輩が帰った後のグラウンドで必死に練習した。


 その成果もあって開幕から好スタート。守備でも私の背中を押してくれる出来事があった。開幕直後の試合で私の失策が敗因となった。社会人時代の都市対抗で自分の失策が原因で敗退した苦い経験があっただけに落ち込み、根本監督に頭を下げると「エラーも三振も野球のうちじゃ。そんなに真剣に考えるな」と笑い飛ばした。「プロ野球では次の日に挽回できるチャンスがある」と思い切ってプレーできるようになった。

 開幕戦から順調に数字を積み重ね、6月には月間打率4割8分1厘をマークし、月間MVP。首位打者争いにも加わった。最終的にはロッテの落合博満さんに及ばなかったが、打率3割1分1厘、21本塁打、25盗塁で新人王となった。ちなみにセ・リーグの新人王は原。お互いに注目ルーキーとしての期待に応えることができた。

1981年の新人王にはセは巨人・原、パは西武・石毛が輝いた

 順調に1年目を終えると、チーム編成の責任者となる管理部長を兼務していた根本さんは監督を退任し、フロント業務に専念することになった。そして、後任に広岡達朗さんが就任した。

会うなりヘタクソ呼ばわりした広岡達朗さん

 私は主宰する「石毛野球塾」など野球教室でボールの投げ方、捕り方やバットの振り方といった基本を教えている。その中で少年野球チームの指導者などから「それはプロの技術です。子供たちには無理です」という意見をいただくことがある。そんな時、私はこう説明する。「基本にプロもアマも関係ない。基本動作、正しい体の動かし方を覚えることから始まるんです。例えば子供と大人で歩き方が変わりますか? 野球の基本動作も同じです。レベルを問わず身につけなければいけないのです」。この基本の大切さを教えてくれたのは広岡達朗さんだった。

監督就任会見で根本前監督(左)と握手する広岡新監督(1981年10月、球団事務所)

 広岡さんとの出会いはプロ2年目の1982年のこと。正直に言わせてもらうと第一印象は最悪だった。根本陸夫さんの後任監督として就任した広岡さんは1月中旬の合同自主トレを視察。私がノックを受けている姿を見て「下手クソですね。あれでよく新人王をとれましたね」と私に聞こえるような大きな声で言い放ったのだ。その場には選手、球団関係者や報道陣もいた。公衆の面前で罵倒されたのだ。

 1年目から結果を出したという自負もあり、私は猛反発した。しばらくは広岡さんを避けるような態度をとった。

 これに対して広岡さんはこれ見よがしに私以外の内野手を懇切丁寧に指導するようになった。いったいどんなことを教えているのか。さすがに気になった。確かに1年目の成績に満足はしていたけど、その一方でもっとうまくなりたい、という気持ちもあったからだ。

 意を決して広岡さんに「僕にも教えてください」と頭を下げた。広岡さんは聞く耳を持たず生意気な態度をとる人間を突き放すが、向上心を持って真剣に教えを請う人間には惜しむことなく自らが持っている理論、考えを授けてくれる。すぐに私を練習の輪に加えてくれた。

 そこで、まず私は「僕はそんなに下手ですか」と単刀直入に聞いた。すると、広岡さんは「お前はこういう格好でボールを捕っている」と私の物まねを始めた。私は驚いた。「そんなに格好悪いのか!」。周囲の選手に聞くと「そっくり」と口を揃える。

 広岡さんは私を観察し、問題点を見抜いていた。そのことを自身の体で正確に再現して私を納得させたのだ。私は「下手クソ」という言葉を受け入れるしかなかった。ショックを受けている私に広岡さんは「お前は自己流なんだ。きちんとした技術、動き方を覚えないとある程度のところまでは行けても、そこで止まってしまう。故障につながる危険もある。でも、しっかりした基本を身につければもっとうまくなれる」と丁寧に説明してくれた。

西武時代、広岡監督(右)の指導を受ける石毛氏

 私は広岡さんの話に納得し、手取り足取りの指導を受けるようになった。その内容は野球の技術はもちろん日常生活での正しい身のこなしにも及んだ。プロ2年目の25歳という早い時期に広岡さんから基本動作を叩き込んでもらったことは私の野球人生にとって大きなプラスになった。

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いしげ・ひろみち 1956年9月22日、千葉県旭市生まれ。市立銚子から駒大、プリンスホテルを経て81年に西武ライオンズにドラフト1位で入団。8回の日本一、11回のリーグ優勝に貢献。新人王(81年)、シーズンMVP(86年)、日本シリーズMVP(88年)、ベストナイン8回、ゴールデングラブ10回、14年連続球宴出場と輝かしい成績を残す。94年オフ、ダイエー(現ソフトバンク)にFA移籍。96年に引退。ダイエー二軍監督、オリックス監督を歴任。その後、四国アイランドリーグを創設するなど各地の独立リーグ設立に尽力。現在は野球教室「石毛野球塾」の塾長を務める。著書は「石毛宏典の『独立リーグ』奮闘記」(アトラス出版)。

※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。

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