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人生で一番戻りたくない時期は大学1年生【石毛宏典連載#4】

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先輩に中畑清さん、二宮至さん、平田薫さん…駒大は黄金時代だった

 もし人生で二度と戻りたくない時期を答えなさい、と問われたら私は迷いなく「大学1年生」と即答するだろう。

 高校3年の2月に東京・世田谷の寮に入寮。2月下旬からは徳島キャンプ、3月中旬に帰京するとオープン戦が毎日のように行われた。高校の卒業式もあったが、先輩から「卒業式に出るのとオープン戦に出てリーグ戦でベンチ入りするのとどっちがいいんじゃ」と一喝された。私は「ベンチ入りの方がいいです」と卒業式を欠席。大学の入学式も「試合があるんじゃ。入学式よりも試合に出たいだろう」と先輩に言われて出席しなかった。ついでに言うと大学の卒業式も社会人のプリンスホテルの練習が始まっていたので出席できなかった。こうした式典には縁がなかったようだ。

1978年秋の東都大学リーグ戦では首位打者に輝いた

 こんな調子で授業に出席することもできなかった。起床は朝6時。1年生は寮の掃除や先輩の食事を配膳したり、お代わりを運んだり、お茶をついだり、といった食事当番をしなければいけなかった。午前9時から練習がスタートして一日中練習。私はスポーツ推薦組ということもあって授業に出席したいと言える雰囲気ではなかった。授業に出るのは試験直前の10日間ぐらい。友人からノートを借りたりして何とか単位を取得して卒業までこぎつけた。とても教職課程を履修する余裕はなく、教員になるという目標はあきらめなければならなかった。

 当然、厳しい縦社会で、何かがあれば、すぐに上級生から「集合」がかかり説教された。1年生は気が抜けない日々を強いられる。毎晩のように1年生が夜逃げ同然で寮を去り、最初は50人以上いた1年生も夏ごろには25人程度になっていた。私は殴られれば「二度と殴られるもんか」と反発し、しごかれれば「見返してやる」と闘志を燃やすタイプ。辞める、逃げるということは一切、考えなかった。

 当時の駒大は黄金時代だった。私が1年生だった時の4年生には「駒大三羽ガラス」と呼ばれた中畑清さん、二宮至さん、平田薫さんがいた。卒業後は揃って巨人に入団することになる3人の活躍で、1975年は東都大学リーグ春夏連続優勝、全日本大学野球選手権も制覇した。

揃って巨人入りし正力亨オーナー(左)、長嶋茂雄監督(右)と手を合わせる「駒大三羽ガラス」の二宮至、平田薫、中畑清(左から=1975年12月)

 その後も3年生までの6季のリーグ戦で優勝5回、77年の全日本大学選手権でも優勝するなど絶頂期は続いていた。私自身も1年春からショートのレギュラーとして出場。1年秋から3年春までの4季連続で東都大学リーグのベストナインにも選出された。

 2年生、3年生の時には日米大学野球選手権の日本代表にも選ばれた。大学野球にスター選手が多かった時代で代表メンバーには法大の江川卓さん(元巨人)、東海大の原辰徳(現巨人監督)をはじめ後にプロ野球で活躍する選手がたくさん選ばれていた。

 最上級生の4年になると主将に指名された。再び人生の岐路に立つことになるが、ここでも私の運命を左右する大きな動きが球界に起こった。

1978年、西武グループの球界参入で進路に大きな変化

 人生は“山あり谷あり”だ。私の大学生活は、その言葉がピッタリかもしれない。

 3年生までは6季のリーグ戦のうち5回優勝。私自身も日米大学野球の日本代表に選ばれるなど順風満帆だった。そして、最終学年となった時には主将に指名された。

 当然、目標はリーグ優勝だ。ところが1978年春のリーグ戦で最下位に沈んでしまう。序盤に接戦を落とす試合が続いたことでチームの雰囲気、リズムが狂ってしまった。強かったチームが私たちの代になって勝てなくなってしまった。先輩方や関係者に「申し訳ないことをした」という気持ちでいっぱいだった。

 しかも、東都大学リーグは一部最下位校と二部優勝校の入れ替え戦がある。負ければ秋のリーグ戦は二部で戦うことになる。これだけは避けなければいけない。絶対に負けてはいけないという重圧の中で戦った入れ替え戦は何とか2連勝して残留を決めた。

 秋のリーグ戦も4位。個人的には打率3割7分2厘で首位打者となったが、チームを取り仕切る最上級生という立場になって勝てなかった。最後の最後で悔しい大学生活となってしまった。

 さて、私の卒業後の進路だ。この時点でもプロ野球には興味がなかった。周囲は日本代表に選ばれたこともあってプロに進むと思っていたようだ。太田誠監督にも進路の相談をすると「えっ、お前はプロに行くんじゃないのか」と驚かれたほどだ。教職課程を履修できなかったので教師はあきらめていたものの、社会人野球を経てアマチュア野球の指導者になりたいと考えていた。この時、太田監督に「監督亡き後の駒沢の監督をやります」と言って「ばかやろう! 何言ってやがんだ」と怒鳴られたのを覚えている。

野球界に参入した西武グループ総帥の堤義明氏。右奥は西武ライオンズの宮内巌球団社長(1978年11月)

 そんな中、大きな動きがあった。西武グループが野球界に参入することを発表したのだ。プロでは西鉄ライオンズの流れをくむクラウンライターライオンズを買収。アマチュアではグループ企業のプリンスホテルが社会人チームを設立することになった。

 西武グループの総帥・堤義明氏は1984年のロサンゼルス大会から野球が五輪競技になることを見据えてアマチュア野球を強化しようと考えていた。その一環として発足したプリンスホテル野球部は大学球界の有力選手を集めた。この年のドラフト候補者も多く含まれており、大きな脚光を浴びることになった。

 私は、このプリンスホテル野球部の1期生として入社。2月中旬から約1か月間、伊豆の下田プリンスホテルで社員研修とトレーニングを兼ねた合宿が行われ、ベッドメーキングや英会話などの講習を受けた。

 その後、プリンスホテル本社の特販課という部署に配属され、企業の会合、パーティーや結婚式でホテルを利用してもらうための営業の仕事などをした。上司に「立派なホテルマンになれる」とほめられたりして、私はホテルマンとして生きていくのもいいかもしれない、と思い始めていた。

石毛氏は駒大卒業後、プリンスホテル入りした

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いしげ・ひろみち 1956年9月22日、千葉県旭市生まれ。市立銚子から駒大、プリンスホテルを経て81年に西武ライオンズにドラフト1位で入団。8回の日本一、11回のリーグ優勝に貢献。新人王(81年)、シーズンMVP(86年)、日本シリーズMVP(88年)、ベストナイン8回、ゴールデングラブ10回、14年連続球宴出場と輝かしい成績を残す。94年オフ、ダイエー(現ソフトバンク)にFA移籍。96年に引退。ダイエー二軍監督、オリックス監督を歴任。その後、四国アイランドリーグを創設するなど各地の独立リーグ設立に尽力。現在は野球教室「石毛野球塾」の塾長を務める。著書は「石毛宏典の『独立リーグ』奮闘記」(アトラス出版)。

※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。

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