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巨人を完膚なきまでに叩きのめして日本一を決めた1990年日本シリーズ【石毛宏典連載#3】

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巨人相手に3度の日本一で球界の盟主の座を不動に

 1990年10月24日、私たちは夕暮れの西武球場で森祇晶監督を胴上げしていた。三塁側ベンチでは藤田元司監督率いる読売ジャイアンツのナインがぼうぜん自失の表情で、私たちの歓喜の儀式を見つめていた。

 日本シリーズ4勝0敗――。東京ドームで行われた第1戦はデストラーデの3ランなどで巨人の槙原寛己を攻略。守っても渡辺久信が完封し、5―0の圧勝。打撃戦となった第2戦は9―5と快勝。西武球場に舞台を移した第3戦は桑田真澄を打ち崩し7―0と圧勝した。そして、王手をかけて臨んだ第4戦、2点ビハインドで迎えた5回に打者11人、6得点という猛攻で7―3。巨人を完膚なきまでに叩きのめして日本一を決めた。

1990年の日本シリーズを制して胴上げされる西武・森監督。巨人に4勝0敗と完勝だった

 試合後、このシリーズで敢闘賞となった巨人の岡崎郁に「野球観が変わった」と言わしめ、巨人OBをはじめ球界関係者からは「巨人の時代は終わった。球界の盟主は西武だ」という声が相次いだ。

 当時、パ・リーグの選手は、人気を独占していた巨人に激しい対抗意識を燃やしていた。私も81年に西武に入団してから11回、日本シリーズに出場したが、相手が巨人となると「俺たちの実力を見せてやる!」と闘志を燃やした。

 初対戦となった83年の日本シリーズでは4勝3敗と接戦を制した。続く87年も4勝2敗。このシリーズでは6戦目の2回の攻撃で一死二塁から中犠飛で二塁走者の清原和博が一気に生還する。8回には一死一塁から秋山の中前打の間に一塁走者・辻発彦が本塁を駆け抜けた。いずれも中堅・クロマティの緩慢な動きと巨人内野陣の中継プレーの隙を突いた走塁だった。この2つのプレーが巨人だけでなく周囲を驚かせた。

 ただ、私たちはシリーズ前のミーティングで巨人の守備に隙があることを把握していた。これで改めて西武の緻密な野球と強さがクローズアップされることになったのだが、90年の4連勝で決定的なものになった。

日本シリーズを制し清原(左)からビールを浴びる石毛(1987年11月、西武球場)

 この年、私自身はシーズン中から左太もも裏の肉離れや左膝痛など故障に苦しみ、日本シリーズでは4試合で1安打と仕事らしい仕事はできなかった。でも、私は仲間がグラウンドで暴れまくる姿を見ながら「ライオンズは何て素晴らしいチームになったんだ」としみじみと考えていた。

 私が入団2年目の82年に「西武ライオンズ」となってから初めての優勝を飾ると94年までの13年間で11度のリーグ優勝、8度の日本一と圧倒的な強さを誇った。このプロ野球の歴史に残る常勝軍団はどのように築き上げられたのだろうか。そのリーダーとしてチームをけん引した私はどのようにして成長したのか。

 駒大・太田誠監督、根本陸夫さん、広岡達朗さん、森祇晶さん…。お世話になった人々の名前が思い浮かぶが、まず大学時代の恩師・太田監督の話をしなければならないだろう。高校で野球に区切りをつけようと思っていた私を野球の世界に踏みとどまらせてくれた恩人だ。

ロッテから6位指名も駒大進学を決心したワケ

 市立銚子で野球漬けの高校生活を送っていても私には野球の道で生きていこうという気持ちは全くなかった。高校2年生の時には都内の工場見学などの就職活動も行っていた。工業化学科だったので印刷会社、製薬会社、せっけんなどを製造している化学メーカーを見学。中でも化学メーカーに興味を持ったので卒業後はその会社に入社したいなと考えていた。

 しかし、運命とは不思議なものだ。私の野球選手としての資質を高く評価してくれた人物がいた。駒沢大学硬式野球部の太田誠監督だ。1971年の就任以来、35年間も指揮を執り、通算501勝。優勝回数も東都大学リーグ22回、春の全国各地のリーグ戦の優勝校などが出場する全日本大学選手権5回、秋季リーグの優勝校などが集う明治神宮大会4回。数多くの選手をプロ野球界に送り出した大学球界を代表する名指導者だ。

駒大・太田監督(左)との出会いが石毛氏(右から4人目)の野球人生に大きな影響を与えた

 その名将が千葉県大会を観戦して「いいショートがいる」と私に目を付けてくれた。そして、旭市の私の実家まで足を運び「駒沢で野球をやらないか」とスカウトしてくれた。ただ、農業で生計を立てていた私の家はそれほど余裕がなく、両親は「せっかく来ていただいて申し訳ないが、ウチには東京の私立大学に行かせるお金がない」と丁重に断った。

 それでも3回、4回と粘り強く太田監督は実家を訪れた。ある日、兄が「本当にこいつは、そんなセンスがあるのか?」と詰め寄ると太田監督は「ある」と断言した。すると兄は両親に「オレが働いて稼ぐから、こいつを大学に行かせてやってくれ」と頭を下げてくれた。これで両親も納得して大学進学を認めた。

 念のため専修大学や法政大学のスポーツ推薦の実技試験を受けていたが、最後に駒沢大学の試験を受けて合格した。高校3年だった74年のドラフト会議ではロッテも6位指名。事前にロッテのスカウト・三宅宅三さんが「指名させていただきたい」と実家にあいさつに来てくれており、その時に駒沢大学への進学を決めていることを伝えていた。

石毛の実家を訪問したロッテ・三宅宅三スカウト

 この頃、私は「先生になりたい」という夢を抱くようになっていた。大学では教職課程を履修して、教員資格を取得しようと考えていた。今でも野球教室で子供たちを指導してる時にふと「オレは先生になりたかったんだよな」と当時のことを思い出すこともある。

 これは私を指導してくれた先生の影響が大きい。小学校の担任だった岩井先生、中学校の野球部監督で担任だった鷺山先生、高校の野球部監督だった矢部先生。そして、大学の太田監督。この4人は私にスポーツを通じて「ひきょうなことをするな」「うそをつくな」という人として最も大切なことを叩き込んでくれた。そして、あいさつや礼儀といった基本的なことを教えてくれた。

 私もそんな教師になりたいと思っていたのだが、大学生活はまさに野球一色。中学、高校と厳しい環境を乗り越えてきた私の想像をはるかに超える生活が待っていた。

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いしげ・ひろみち 1956年9月22日、千葉県旭市生まれ。市立銚子から駒大、プリンスホテルを経て81年に西武ライオンズにドラフト1位で入団。8回の日本一、11回のリーグ優勝に貢献。新人王(81年)、シーズンMVP(86年)、日本シリーズMVP(88年)、ベストナイン8回、ゴールデングラブ10回、14年連続球宴出場と輝かしい成績を残す。94年オフ、ダイエー(現ソフトバンク)にFA移籍。96年に引退。ダイエー二軍監督、オリックス監督を歴任。その後、四国アイランドリーグを創設するなど各地の独立リーグ設立に尽力。現在は野球教室「石毛野球塾」の塾長を務める。著書は「石毛宏典の『独立リーグ』奮闘記」(アトラス出版)。

※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。

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