「原はクルマに例えたらポルシェだよ。オマエはさしずめワーゲン」は妙に納得できた【駒田徳広 連載#10】
「怒っちゃダメ、しかるのよ」ボクの短気な性格を心配してくれた藤田夫人
藤田さんが「オヤジ」なら、ボクたち選手はみな息子。あのころのメンバーたちには家族のような結びつきがあった。
選手同士はグラウンドを離れたプライベートでも仲が良かったし、家族ぐるみでの交流も盛んだった。そういう雰囲気をつくってくれたのは藤田さんの奥さん、節子さんだった。
節子さんは選手の奥さんたちを集めて「夫人会」というものをつくると、世田谷の自宅で月に1回、料理教室を開いてくれた。選手がグラウンドで存分に力を発揮するには、奥さんたちの支えが絶対に必要だし、家族が現場の仕事を理解してくれるにこしたことはない。そして交流の場が増えたことで奥さんたちの意識も変わり、家族同士の結びつきもより強くなった。その結果、チームの一体感はさらに増すことになるのだった。
節子さんは藤田さんの「全員で野球をやろう」という考えを誰よりも理解していた人だったと思う。ボクたち選手のこともいつも気にしてくれて「駒田クン」「駒田クン」と優しく声を掛けてくれた。だから選手の性格もよく知っていた。節子さんはボクの短気な性格を心配していて、こんなふうに言われたこともあった。
「駒田クン、怒っちゃダメよ。怒るというのは自分の感情をそのまま出すことなんだから。怒るんじゃなくて、しかるのよ。あなたが自分の感情をぶつけるんじゃない。相手のためを思ってしかるの。いい? だから怒っちゃダメなのよ」
そんな節子さんのためにも、ボクたちは優勝していい思いをさせてあげたかった。節子さんは優勝旅行に行くといつも「駒田クン、こんなおばあちゃんを海外まで連れてきてくれて、ありがとうね」と喜んでくれるからだ。
チームプレーの大事さ、相手の身になって考えること…。藤田さん、そして節子さん、とにかくあの夫婦にはたくさんのことを教わった。
そして、ボクたち若い選手を引っ張ったのは原(辰徳)さんだ。あのころ選手同士の仲は良かったけれども、先輩後輩のケジメはしっかりついていたように思う。何かがあれば原さんが若手の意見をまとめて、中畑さんにお伺いをたてるという感じだっただろうか。
原さんはボクが2位指名された同じ1980年のドラフトで1位指名を受けて巨人に入団。常にスポットライトを浴び続けるスーパースターだった。そんな原さんはとにかくスケールが大きかった。「メシ、食いに行くからついてこいよ!」と連れて行ってもらうたびに「原さんってすげえなあ」とボクたちは驚かされるのだった。
チームリーダーは作り出すものじゃない!ボクは原さんの人柄についていったんだ
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