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新庄監督に通じるクロマティの〝エンジョイベースボール〟【駒田徳広 連載#11】

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「オレは許せない…」ボクを1年でクビにした楽天を怒ってくれた原さん

「オレはどうしても許せないんだ。頼んでおいて1年で辞めさせるなんて…」。電話の先の声が怒りに震えていた。あれは昨年(※06年)の11月のこと、声の主は原さんだ。

 ボクはその電話で巨人の臨時コーチ就任を打診されていて「もちろん喜んでやらせてもらいます」と即答していた。そして冒頭の言葉が出たのだった。

原監督(右)は07年の宮崎キャンプに駒田氏を臨時コーチとして招聘した

 それが原さんの思いやりだということはすぐに分かった。そのころ、ボクは楽天の打撃コーチをクビになりボーッとした毎日を送っていた。初めてのコーチ就任にもかかわらず1年でクビでは、指導者として「失格」の烙印を押されたも同然だ。もう二度とコーチとしてのオファーが来なくても不思議はないだろうし、そんな人間が解説者をしたところで誰が聞いてくれるのか。原さんはボクが置かれていた状況を誰よりも心配してくれたのだ。

楽天のコーチを務めていたときの駒田氏。手前は田尾安志監督(05年4月、西武)

「臨時コーチ」としての巨人復帰。そういう場を与えることで、原さんは「ダメコーチ」の烙印を押されたボクを救おうとしてくれた。そんな原さんの思いに何とか応えたい――。だから今年の宮崎キャンプ初日、選手宿舎の青島グランドホテルでのミーティングで巨人の選手たちを前にあいさつした時は、むちゃくちゃ緊張した。ここ何年かであんなに緊張したことはなかったぐらいだ。

原監督(右)と駒田氏(06年11月、宮崎)

そのキャンプでは原さんとこんな話をした。「なあコマ、やっぱり守備って大事なんだよなあ」「でも、ボクたちの守備だって胸を張れたもんじゃなかったじゃないですか」「そうか、確か記録を作っただろう」。その記録とは1990年に作った16試合連続無失策のこと。当時のリーグ新記録だ。

 そのころの巨人では川相の守備はうまかったけれど、飛び抜けた名手はいなかったように思う。それでも守備から崩れた試合の記憶はあまりない。89年には打力を優先した大胆なコンバートが行われたが、守備のほころびは出なかった。原さんが左翼に回り、三塁は再び中畑さん。岡崎さんが一塁に入り、ボクが右翼というやつだ。

 その後、中畑さんが開幕1週間で骨折してしまい、岡崎さんが三塁、ボクが一塁を守ることになったのだけれど、思わぬアクシデントにも動じずにしっかり守ることができたのは、個々の能力というよりは「チームとしての結束力」が強かったからかもしれない。

 例えて言えば「アイツのために守ってやろう」という気持ちもそのひとつ。89年にあの大記録を打ち立てた斎藤雅樹は、野手にそう思わせるタイプのピッチャーだった。

斎藤雅樹(左)を祝福する駒田氏(88年、東京ドーム)

ベンチで声張る斎藤を見て思った「コイツのために打とう、守ろう」

 藤田さんが監督に復帰した1989年、巨人は2位広島に9ゲームの大差をつけ、ぶっちぎりで優勝した。

 投の立役者となったのは「3本柱」と呼ばれた斎藤(20勝7敗、防御率1・62)、槙原(12勝4敗4S、1・79)、桑田(17勝9敗、2・60)の3人だ。その中でもやはり「11連続完投勝利」というとんでもない日本記録を達成した斎藤の存在が大きかったように思う。

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