なぜボクは最初で最後の〝裏切り者〟になったのか【駒田徳広 連載#1】
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なぜボクは最初で最後の〝裏切り者〟になったのか【駒田徳広 連載#1】

「満塁男」が29年ぶりの巨人復帰!~はじめに~

 29年ぶりの古巣復帰――。「満塁男」の異名で呼ばれた駒田徳広氏が巨人の三軍監督に就任しました。さかのぼること1993年、当時のチーム状況からFA宣言して横浜(現DeNA)へ移籍。〝球界の盟主〟をFAで飛び出した初の選手となり、「裏切り者」とも呼ばれた男がYGのユニホームに再び袖を通します。衝撃の退団劇から四半世紀が過ぎ、帰ってきた駒田氏に託された仕事はチームの未来を担うヤングGの育成。今だからこそ知りたい新監督の野球哲学とは…。駒田氏の人間味があふれる15年前の紙面人気連載をご覧あれ!

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巨人に対する恨みつらみは一切ない。むしろ…

 これまでFA宣言して巨人に別れを告げた選手といえば、ボク以外にはヤンキースの松井秀喜がいる(※小久保裕紀が06年11月に古巣ホークスにFA移籍)。しかし、自ら望んで国内他球団に移籍し、巨人を敵に回して戦ったのは今のところボクだけだ。70年を超える巨人軍の歴史の中で、ボクは最初で最後の「裏切り者」かもしれない。

 当時も今も、巨人に対する恨みつらみの感情は一切ない。むしろ巨人を思うと感謝の気持ちで胸がいっぱいになる。ボクにとって巨人で過ごした13年間はかけがえのない宝物だからだ。奈良の田舎から出てきた生意気な高校生を、監督、コーチ、先輩たちは本当の息子や弟のように扱い、育ててくれた。プロとしての厳しさはもちろん、時には温かく…。ボクにここまで充実した野球人生を歩ませてくれたのは、間違いなく「ジャイアンツ」だった。

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1980年ドラフト2位で巨人に入団した駒田(左)と藤田元司監督

 そんな巨人が今(=掲載時の2006年)、苦しんでいる。ボクを育ててくれた先輩や、同じカマのメシを食べた兄弟たちがもがいている。原監督、近藤ヘッドコーチ、そして篠塚、岡崎コーチ、吉村二軍監督…。どうしてこうなってしまったのか、みんな歯がゆい思いでいっぱいだろう。もちろんボクだって同じ気持ちだし、そんな巨人を放っておけるワケがない。巨人はどうすれば、あのころの輝きを取り戻せるのか。よき時代を過ごしてきたボクの経験をお話しすることで読者の方はもちろん、今の選手たちも何かを感じてくれるのではないかと思っている。

 かつての巨人は「特別なチーム」だった。ボクは横浜に移籍して初めてそのことを実感した。日本一という目標達成のため、すべてにおいて個人の事情よりチームが優先され、妥協、失敗は許されない。そして戦術、技術論からトレーニング方法まで、新しいものを積極的に取り入れ、常に他球団より一歩先を行く。その意識が首脳陣や選手だけでなくフロントにも徹底されていた。

駒田徳広FA会見(93年11月、巨人軍球団事務所)

FA宣言した駒田(93年11月、巨人軍球団事務所)

 そしてボクたち選手はそんな巨人の一員であることに誇りを持って戦っていた。少しでも気を緩めたら置いていかれる。チームに張り詰めていたあの独特の緊張感が、巨人の伝統的な強さの源だったのだろう。

 巨人はどうすれば復活するのか。ボクなりの考えを話す前に、まずどうしても触れておかなければならない話がある。そんな素晴らしいチーム、巨人をなぜ出ていかなければならなかったのか。そのあたりから話を進めていきたい。

オープン戦起用めぐり中畑コーチとSAのトイレで衝突

 1993年のシーズンオフから、球界にFA制が導入された。おかげで今まで弱い立場にあった選手は対等の立場で球団と話すことができるようになった。一方で、巨人が変わってしまった原因もこのFA制にあるんじゃないか。制度自体が悪いワケではない。しかし、ボクにはFA制の導入で巨人の歯車が大きく狂ってしまったような気がしてならない。

 そのことに触れる前に、自分のことを話しておく必要がある。ボクはFA制を利用して横浜へ移籍した。「自分はFAでいい思いをして、今さらFAの批判をするのはおかしい」と思う人もいるかもしれないからだ。

駒田徳広、FAで横浜入団、近藤昭仁監督と(93年12月、横浜市のホテル・リッチ横浜)

FAで横浜入団した駒田、近藤昭仁監督と(93年12月、横浜市のホテル)

 93年オフ、ボクはFA移籍しなくても、トレードに出されていた可能性があった。だからボクの場合は「巨人を捨てた」というよりは「自分自身で居場所をなくしてしまった」という方が正解かもしれない。思い返せば、あの年はすべてが最悪の年だった。開幕前からロクなことがなく、思うようなプレーもできなかった。おかげで打撃コーチの中畑さんとは何度も衝突してしまった。

 ケチのつき始めは3月24日の宇都宮でのオープン戦だった。開幕まであと4試合しかなく、ボクは実戦のつもりで最終調整に臨もうと、とにかく気合が入っていた。

大森剛(96年2月、宮崎)

89年にドラフト1位で入団した大森剛(96年2月、宮崎)

 チームは前日に水戸から宇都宮へとバス移動。その道中のサービスエリアで“事件”は起きた。気合十分のボクがトイレで勢いよく用を足していると、中畑さんが入ってきて「あすは大森を試したいから先発を外れてもらうぞ」。これにボクはガクッときてしまった。

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1993年、駒田氏と中畑コーチ(左から2人目)の間には微妙な空気が流れていた

 それでも自分の思いを伝えたい。ボクは「毎年、開幕直前の試合は実戦で調整させてもらってます。あすもそのつもりでした。何とか試合に出してもらえませんか? この4試合は本気で悔しがったり喜んだりして、モチベーションを上げていきたいんです」と必死になって訴えた。

 予想もしないリアクションだったのだろう。それにボクの言い方にトゲがあったのかもしれない。次の瞬間、中畑さんの顔色がサッと変わった。

「分かってんのか? これは(長嶋)監督の指示だ。オレの指示に従えないということは監督に従えないということだぞ!」

 中畑さんの立場も分かる。それでもボクは「試合に出たい」と食い下がった。そのうちボクも中畑さんも引き下がれなくなってしまい「出たい」「出さない」の押し問答。揚げ句中畑さんは「意地でも使わない!」。そこへ慌てて飛んできたのがヘッドコーチの須藤さんだった。

出番なしのハズが急遽代打指令。中畑コーチとの関係はさらに悪化

 1993年、宇都宮でのオープン戦前日のことだった。「大事な時期なので、例年通り試合で調整させてほしい」とスタメン出場を志願したボクの態度が気に入らなかったのか、打撃コーチの中畑さんと衝突してしまった。

左から須藤豊ヘッドコーチ、長嶋茂雄監督、中畑清打撃コーチ(93年2月)

左から須藤豊ヘッドコーチ、長嶋茂雄監督、中畑清打撃コーチ(93年2月)

 今から思えばボク自身「甘え」があったのだろう。この年から長嶋監督が就任し、チームの体制は大きく変わっていた。これまで通り「レギュラー扱いしてくれるもの」と思っていたボクには「わがままを認めてくれるハズ」という先入観があったのかもしれない。

 それに当時のボクには納得できないことには黙っていられないところがあった。その結果、中畑さんには押し問答の末に「意地でも使わない」とまで言わせてしまった。そんな険悪なムードを察知したのか、慌てて飛んできたのはヘッドコーチの須藤さんだった。

「オイ、コマよ。そういや腰の調子もよくないんだろ? 明日はちょっと体を休めてリフレッシュしたらどうだ。試合前の練習は外野を走るだけでいい。トレーナーには言っておくから全身をマッサージしてもらえよ」

 確かに当時のボクは尾てい骨のあたりを痛めていたし、須藤さんにそう諭されたら仕方がない。何とか思い直して、試合当日は体の手入れに専念することにした。

山倉和博コーチ(左)と長嶋茂雄監督(93年2月、宮崎)

山倉和博コーチ(左)と長嶋茂雄監督(93年2月、宮崎)

ところがそれでは終わらなかった。試合中ベンチ裏でハリを打ってもらっていると、終盤にバッテリーコーチの山倉さんが慌ててボクを呼びにきた。「代打でいくぞ!」。あっけにとられたボクは思わず「そんなハズはないでしょう。だってボク、中畑さんから“意地でも使わない”って言われてるんですよ。見てくださいよ、今はパンツ一丁でハリ打ってもらってるんですから」と口をとがらせていた。

 山倉さんは困ったような顔をして「監督が“駒田でいく”と言ってるからいくしかないだろう」。仕方なく慌てて打席に立ってセンターフライ。中畑さんではなく山倉さんが代打を告げにきたのだから、中畑さんの腹の虫が収まっていないことは容易に想像できた。この件以来、中畑さんとは気まずい関係が続くことになってしまった。

 中畑さんは選手としても人間としても素晴らしい人だ。ボクも初めて中畑さんに「オマエも一丁前になったな」と認めてもらった時は、跳び上がるほどうれしかったものだ。そして2人とも同じ方向を向いていたハズだった。だが…。わずかな感情の行き違いが元で、ボクは中畑さんの話を素直に聞けなくなっていた。そして次に起きたのが、あの「バント事件」だった。

中畑コーチが「何だ、あの態度は!」とブチギレたバント事件

 1993年、オープン戦での先発出場直訴が却下され、早々と打撃コーチの中畑さんと衝突してしまった。そんなボクを次に待っていたのは、5月9日のヤクルト戦(神宮)での「バント事件」だった。

ヤクルト、荒木大輔(93年、東京ドーム)

ヤクルトの荒木大輔(93年、東京D)

 ヤクルトは荒木(大輔)が先発で、巨人は1回表から連続ヒットで無死一、二塁のチャンスを作った。その日、久しぶりに3番に入っていたボクは「(2番の)川相に強攻させるとは長嶋監督も強気だなあ」と思いながら、打ち気満々で打席に向かっていた。

 ところが、自分に出されたサインは「送りバント」。もちろん作戦だから仕方がない。ただ、久しぶりに3番に起用してくれたことで「ボクに期待してくれている」という思いがあっただけに、不満そうな態度をあからさまに出してしまった。そして試合が終わってから中畑さんに呼び出され「何だ、あの態度は!」とどやしつけられたのだ。

 あの試合でボクはタイムリーも打ってチームの勝利に貢献したし、バントもキッチリ決めた。だから「自分の仕事はちゃんとしたじゃないですか」と言い返すと「何い!」。とにかく中畑さんとはそんなことの繰り返しだった。

 広島の選手宿舎の屋上で「どうしてストレートを狙わないんだ!」「じゃあ、あの場面でストレートを狙う理由を教えてください」と口論したことや、試合前の打撃練習メニューを突然、変更されたこともあった。「きょうは試したいことがあったんです。いつも通りに練習させてください」と言うと「結果が出ていないんだから、気分を変えてやってみろ」。ボクのためを思ってのことだったのかもしれない。それでも当時は納得できないことだらけだった。

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93年、駒田はことあるごとに中畑コーチと衝突した

 5月22日の阪神戦(甲子園)ではスタメンを外され、連続試合フルイニング出場が307試合で途切れた。前夜、芦屋の宿舎でヘッドコーチの須藤さんに「これから大変だろうが頑張れよ」と声をかけられていたボクは、当日になって「大変なことってこのことだったのか」とようやくその意味が分かった。

 それでも記録自体にはこだわりはなかった。ただ毎日、試合に出ることが楽しかっただけで、風邪を引いて熱があってもそれを隠し、試合に出続けてきた。そんなボクが「出なくていい」と言われて「はい、そうですか」と特別な感情を持たなかった。それぐらいボクの気持ちは冷めていた。

 今、巨人に当時のボクのような選手はいないだろうか。次回はそんな選手にボクなりの考えを伝えてみたい。

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こまだ・のりひろ 1962年9月14日生まれ。奈良県出身。桜井商高から80年ドラフト2位で巨人入団。83年に史上初の初打席満塁本塁打を記録。89年には日本シリーズMVPに輝く。93年オフに横浜へFA移籍し、98年には38年ぶりの日本一に貢献した。00年に通算2000安打を達成し、オフに引退する。通算成績は2063試合、2006安打、195本塁打、953打点。通算満塁本塁打13本は歴代3位。ゴールデングラブ賞10回、ベストナイン1回。05年に楽天、09年に横浜の打撃コーチを務める。巨人軍の第52代4番打者でもある。21年11月、巨人の三軍監督に就任することが明らかになった。

※この連載は2006年10月11日から07年2月2日まで全64回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全21回でお届けする予定です。

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ありがとうございます。また読みにきてね
東京スポーツ新聞社の紙面で過去に掲載された連載がまとめて読めたり、ココだけしか読めないコンテンツがあったりします。できる範囲で頑張ります。