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日本中に衝撃が走った1980年、巨人・長嶋茂雄監督の解任【定岡正二連載#19】
初勝利を飾ってからはとんとん拍子
クックック、ハッハッハ! 宿舎の自室に戻ったボクは、じわじわと込み上げてくる感情を抑え切れず、不気味な笑い声を上げていた。ナゴヤ球場で行われた1980年6月5日の中日戦で、ボクは念願のプロ初勝利を手にすることができた。グラウンドでは無理やり押し殺していた感情が、部屋に帰ってきた途端に爆発したのだ。風呂に湯をためて体を沈めても、笑いは止まらない。6年目にしてようやくつかんだ初白星の味は、とにかく格別なものだった。
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風呂から上がり、笑いたい気持ちを収めてから鹿児島の実家に電話した。おふくろが出た。「勝ったよ…」。うれしい気持ちとは裏腹にぶっきらぼうに話した。「よかったね。ラジオで聞いてたよ。新聞社からもたくさん電話がかかってきたんだよ。正二、本当におめでとう!」。あの時は最高に照れくさかった。
「正二!」。突然、親父の声がした。どうやらおふくろから受話器をもぎ取ったらしい。しかし、親父はそう言ったきり無言だった。しばらくしてから「よかったなあ」という涙声が聞こえてきた。親父が泣いている…。実家の前にリヤカーで土を運んできて造った特設マウンドで、親父相手に投げ込んだ少年時代の日々が、まるで昨日のことのようによみがえってきた。「うん、勝った。やっと勝てたよ…」。ボクも言葉にならなかった。
それから担当スカウトの伊藤芳明さんにも電話した。「すいません。長くかかりました」。お世話になった人たちは口々にボクを祝福してくれた。時間がたつにつれ「ようやくオレもプロ野球の世界に足跡を残すことができたんだ」という実感がわいてくる。あの時のことを思い出すと、今でも自然に笑いが込み上げてきてしまうぐらいだ。
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不思議なもので初勝利をマークした後は、とんとん拍子に白星が増えていった。6月14日の大洋戦(後楽園)でプロ2勝目を挙げると、横浜スタジアムで行われた8月11日の大洋戦ではプロ初完投勝利をマーク。10月15日、本拠地最終戦となった128試合目の広島戦(後楽園)ではプロ初完封勝利と、順調に結果を積み上げていった。結局、この年のシーズンは9勝8敗、防御率2・54という先発投手としては合格点の成績を残すことができた。何よりドラフト1位で入団して以来、心配をかけっぱなしだった長嶋茂雄監督の期待にようやく応えることができたことがうれしかった。
だが、この年の巨人は序盤の不調がたたり、優勝した広島から14・5ゲーム差をつけられて3位に終わった。そして全日程が終了した翌朝の10月21日、友達の家に泊まっていたボクは、その友達に叩き起こされることになる。「おい、起きろ! 大変だぞ!」。突き付けられたスポーツ紙の大見出しに、思わず自分の目を疑った――。
「サダよ、ピッチングというのは心だ」
長嶋解任――。日本中を揺るがした大ニュースは1980年10月21日の朝に飛び込んできた。「大変だ! これを見てみろ!」。その前夜、友達の家に泊まっていたボクは叩き起こされ、スポーツ紙を突きつけられた。「こんなの信じられないよ!」。巨人は20日に今季最終戦を終えたばかり。昨日までの長嶋茂雄監督には、そんな空気はみじんも感じられなかった。
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しかし、長嶋さんが辞めるのは紛れもない事実だった。テレビをつけてみるとすでに大騒ぎになっており、長嶋さんは1週間以上も前からチームを去ることを心に決めていたという。ということは…。ボクがプロ初完封勝利をマークしたのは本拠地最終戦となった10月15日の広島戦だ。長嶋さんはどんな思いであの試合を戦っていたのだろう…。「今日が後楽園での最後のゲームだ」。万感の思いで試合に臨んでいたことは想像に難くない。
しかも、この年のオフは王貞治さんが11月4日に現役引退を発表しているから、あの広島戦は「ONにとっての本拠地最終戦」ということになる。ボクはそんなことになっているとは夢にも思わず、自分のことに精いっぱいでマウンドに上がった。「サダ、おめでとう!」。試合後、プロ入り初完封勝利を喜んでくれた長嶋さんと王さんの言葉が、あとになってズシリと胸に響いてくる。恩返しらしい恩返しは何もできなかった。
ボクにとっての長嶋さんは恩人だった。「なあサダ、オレとお前は縁で結ばれているんだよ。オレが監督になった時、お前がドラフト1位で入ってきただろう。オレは縁というものを大事にしたいんだ」
ボクが二軍でくすぶっているころ、長嶋さんはそう言ってボクを励ましてくれた。プロ入り初勝利を挙げる前の年には「サダよ、ピッチングというのは心だ。ボールに気持ちを込めれば必ず勝てる!」と背中を叩いてくれた。
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こんなこともあった。後楽園球場での広島戦、早い回からリリーフに出てメッタ打ちにされた試合後のことだ。「サダ、監督が呼んでるぞ」とマネジャーから言われて監督室を訪ねると、長嶋さんは鬼の形相で「そこに正座しろ!」。次の瞬間、手加減なしの平手打ちが飛んできた。長嶋さんは「オレは悔しい! なぜ逃げるんだ! 全力で戦って打たれたのなら文句は言わん。オレはお前が逃げたのが悔しいんだ!」と声を震わせた。ボクは何も言えなかった。
そんな長嶋さんが、何も言わずにいきなりボクたちの前からいなくなってしまった…。せめてもう1~2年、一軍に定着するのが早かったら、もう少し恩返しできたのにと思う。長嶋さんから「食事をしよう」と連絡が入ったのは、それから2か月後のことだった。
さだおか・しょうじ 1956年11月29日生まれ。鹿児島県出身。鹿児島実業高3年時の74年、ドラフト会議で巨人の1位指名を受け入団。80年にプロ初勝利。その後ローテーションに定着し、江川卓、西本聖らと3本柱を形成するも、85年オフにトレードを拒否して引退を表明。スポーツキャスターに転向後はタレント、野球解説者として幅広く活躍している。184センチ、77キロ、右投げ右打ち。通算成績は215試合51勝42敗3セーブ、防御率3・83。2006年に鹿児島の社会人野球チーム、硬式野球倶楽部「薩摩」の監督に就任。
※この連載は2009年7月7日から10月2日まで全51回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全25回でお届けする予定です。