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竜頭蛇尾より〝蛇頭竜尾〟後半で輝け!【野球バカとハサミは使いよう#18】

難事を成し遂げるには進退かけた覚悟が不可欠

 難しい仕事に挑もうとするときほど、相応の覚悟が必要になってくる。覚悟とは、すなわち仕事にかける熱量である。

 プロ野球界で、この覚悟がないと務まらない仕事といえば、たとえば審判だ。審判とはいくら好ジャッジをしても称賛されることはなく、一方で一度でも誤審をすれば非難を浴びたり、自分より高額所得者の選手から暴行を受けたりもする因果な商売だ。信賞必罰のバランスを欠くだけに、よほどの情熱がないとやっていけないだろう。

 中でも、かつてセ・リーグの名物審判として長らく活躍した故平光清が印象深い。平光はプロ野球の選手経験がないにもかかわらず、1965年にセ・リーグ審判に採用されると、一度も二軍を経験することなく、いきなり一軍デビューを果たした超エリート審判である。

名物審判だった平光清

 そんな平光の覚悟を強く感じたのは、92年9月11日の阪神VSヤクルトだ。この年、阪神とヤクルトは優勝をかけてデッドヒートを続けており、この試合が天王山と目されていた。

 試合は同点のまま9回裏阪神の攻撃になり、打者・八木裕がセンターに大飛球を放った。すると、それが外野フェンスのグラウンド側の上部ラバー部分に当たって跳ね、あろうことか金網部分を越えて外野スタンドに入ってしまった。

 このような事態に陥ったときの明確な判定は当時のルールブックに記載されておらず、二塁塁審を務めていた平光は本塁打と判定。しかし、ヤクルト側が猛抗議したことにより、なんと二塁打に判定を覆したのだ。

 当然、今度は阪神側が抗議した。阪神監督の怒りはピークに達しており、なかなか引き下がらない。そこで平光は「俺が(審判を)辞めるから、どうにか抑えてくれ」と、自分の進退をかけた一言を放ったという。

 結局、その一言で騒動は鎮静し、平光も本当に辞職した。翌年、審判部長就任が確実視されていた平光だったが、その座につけぬまま球界を去ったのだ。

乱闘寸前の若菜嘉晴(右)とクロマティを止める平光清主審(86年、後楽園球場)

 これはプロ野球の審判だけに限らず、厳しく難しい仕事に挑もうとするビジネスマンすべてにとって必要な覚悟だ。何も「仕事のミスは辞職で償え」と言いたいわけではない。大きな仕事を成し遂げるためには、自分の進退をかけるくらいの強い覚悟が必要ということである。

 どの世界でも、大きな成功をつかんだ人間には、その仕事に人生を懸けてきた壮絶なドラマがある。逆に言うと、常に進退をかけているからこそ、立身出世のドラマが生まれるのだ。

終わってみれば最優秀中継ぎ投手の河野博文

 仕事において、残した結果以上に周囲から評価される、実にうらやましい人がいる。プロ野球界では、1980~90年代に日本ハムや巨人などで活躍した左腕投手・河野博文がそうだった。

 河野といえば、一般的に日本ハム時代より巨人時代の活躍の方が有名だろう。中でも96年はセットアッパーとして巨人のリーグ優勝に大きく貢献し、最優秀中継ぎ投手賞に輝いた。あの活躍によって、河野の名前は一躍全国区となった。当時の巨人監督・長嶋茂雄が、彼のことを「ゲンちゃん」という愛称で呼んでいたことを覚えている方も多いだろう。活躍という意味では、日本ハム時代の88年にも最優秀防御率賞を獲得している河野だが、印象的には96年の方がはるかに強い。

日本ハムでも活躍した河野。大沢啓二監督(左)とガッチリ握手(93年、東京ドーム)

 ところが、当時の投手成績を見てみると、少し拍子抜けしてしまう。96年の河野は39試合の登板で6勝1敗3セーブ、防御率3・29。別に悪い数字ではないのだが、最優秀中継ぎ投手賞としては物足りない。近年の同賞は、昨年の巨人・山口鉄也や一昨年の中日・浅尾拓也のように、70試合以上の登板及び防御率1点台以下が多いからだ。

 実際、96年の河野は決して、年間を通して大活躍をしたわけではなく、開幕は二軍スタートだった。その後、5月に一軍に昇格するも、そこでも登板のたびにめった打ちを食らい、あわや信頼失墜の事態にまで陥った。

 それにもかかわらず、終わってみれば最優秀中継ぎ投手賞を獲得できたのは、夏場以降の河野がまさに覚醒したからに他ならない。特にシーズン終盤の優勝争いの中では、連日のようにリリーフ登板を成功させ、巨人の窮地を幾度となく救った。

 要するに、96年の河野は乱暴に言えば「後半だけ」の活躍なのだ。それなのに、巨人優勝の大功労者のような高い評価を受けるとは、人間の記憶や印象とはつくづく曖昧なものだ。

 だが、この曖昧さこそがサラリーマンの狙い目でもある。例えば、あるプロジェクトを任されたとして、それの最初から最後まで安定して大活躍を続けるのは至難の業だ。人間誰しも好不調の波があるからだ。

 そんなとき、重要になってくるのは、河野のように好調時をプロジェクトの後半に持ってくるということだ。人間とは得てして前半よりも後半の印象の方が強く残るものであり、同じ成果を上げても、それが後半であればあるほど高い評価につながるものだ。竜頭蛇尾より“蛇頭竜尾”。それが効率的に高い評価を得るコツなのである。

巨人の河野博文

山田隆道(やまだ・たかみち) 1976年大阪府生まれ。京都芸術大学文芸表現学科准教授。作家、エッセイストとして活躍するほか大のプロ野球ファンとして多数のプロ野球メディアにも出演・寄稿している。

※この連載は2012年4月から2013年9年まで全67回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全33回でお届けする予定です。

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