見出し画像

ボクは女の子たちの黄色い声、江川卓さんはおっさんのヤジ、原辰徳は老若男女から声援【定岡正二連載#20】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ

長嶋茂雄さんと惜別の〝2分間〟

 あの「長嶋解任騒動」があった1980年10月21日から2か月後、ボクは「久しぶりに食事でもしないか」と長嶋茂雄さんから声をかけてもらった。あの時は「オロナミンC」のCM撮影で、ほかの選手たちとハワイのホノルルにいた。長嶋さんも別のCM撮影でハワイに滞在していて、ホテル近くの中華料理店に招待してくれたのだ。

長嶋監督(右)は定岡を、それこそ我が子のように心配していた

 出席したのはボクのほか西本聖夫妻、松本匡史夫妻、山倉和博夫妻、鹿取義隆夫妻。手際よく料理を注文した長嶋さんは、ボクらの顔をぐるりと見回すとこう切り出した。「2分間だけボクにしゃべらせてください。本当にみんなには申し訳なかった。突然、監督を辞めてしまったことは…」。それから一人ひとりに激励とねぎらいの言葉をかけ、別れを惜しんだ。「定岡、お前にとっては来年こそ本当の勝負だぞ」。そうして長嶋さんの「2分間」はあっという間に終わってしまった。

 それからとびきり上等の料理が次から次へと出てきた。食事を終えると長嶋さんとみんなで記念写真を撮った。あれが長嶋さんとボクたちの「最後の晩さん」だった。

 その席で長嶋さんはこんなことを言い出した。「サダには悪いことをしたな。お前が『結婚したい』と言ってきた時に『まだ早い』と止めたりして…」。みんなびっくりしたような顔でボクを見た。だが、ボクにはそんなことを長嶋さんに言った記憶がまるっきりなかった。

 思い当たるところで言えば…。あの当時、ボクは選手寮から出たくてたまらなかった。そこで「結婚したい」と言えば寮から出してもらえるんじゃないかと考えた。実際「結婚したいので、そろそろ寮から出してくれませんか」と、寮長の武宮敏明さんには言った覚えはある。もちろん、意中の女性がいたわけではない。それを武宮さんが「定岡がこんなことを言ってますけど、どうしますか?」と、長嶋さんに報告したのかもしれない。

 そんな軽い気持ちで言った言葉を、長嶋さんは本気で「すまないことをした」と思っていてくれたなんて…。返す返すも長嶋さんには迷惑をかけっぱなしだった。

 翌81年、巨人は新監督に就任した藤田元司さんの下、新たな戦いへと船出した。現役を引退した王貞治さんが助監督になり、ヘッドコーチの牧野茂さんと藤田監督を支える「トロイカ体制」が注目された。戦力的に王さんが抜けた穴をどう埋めるか、という点で大いに期待を集めたのは、東海大からドラフト1位で入団した黄金ルーキー・原辰徳だった。

王助監督、藤田監督、牧野ヘッドコーチ(左から)のトロイカ体制がスタート(1981年7月、神宮球場)

 ボクが鹿児島実業高校時代、夏の甲子園で延長15回の死闘を演じた東海大相模の主軸打者と、ここで同じユニホームを着ることになるとは…。運命的なものを感じずにはいられなかった。

原の持ってうまれた「スターの資質」

 新監督の藤田元司さんが当たりくじを引いた時、ボクは運命的なものを感じずにはいられなかった。1980年のドラフト会議の“目玉”は東海大のスラッガー・原辰徳。巨人、日本ハム、大洋、広島と4球団の競合となり、巨人が交渉権を獲得したのだ。

 原はボクが鹿児島実業高校時代に夏の甲子園で対決し、延長15回の死闘を演じた因縁の相手でもある。巨人に入団した原と、選手寮で最初に会った時の印象は「おおっ、たくましくなったなあ。すっかりオトナの男になっちゃって…」。トレンチコートをさっそうと着こなす姿には、初めて対戦した6年前、東海大相模の1年生だったころの面影はなかった。

巨人からドラフト1位指名された原は、会心の笑顔でVサインを決めた

 後になって原と高校時代に対戦した時の思い出話をしたことがある。
「あの時の相模は、かなり“定岡さん対策”を練っていたんですよ。それにしても定岡さんのカーブはすごかったなあ」なんて言ってくるから「うそつけ、また調子のいいこと言って」。原はとにかく先輩からかわいがられる性格で、絵に描いたような好青年だった。あの「さわやかさ」は作られたイメージではなく、天性のものだと思う。

 それにしても原が入団した時の、ファンのフィーバーぶりはすごかった。ボクも人気者のつらさは分かっているつもりだけれど、ボクの時は女の子たちの黄色い声が中心で、江川卓さんが入団した時はおっさんたちの厳しいやじがほとんどだった。だが、原の場合は老若男女、すべての世代の巨人ファンから大きな声援が飛んでいたように思う。「ジャイアンツの未来を頼むぞ!」。あいつは入団1年目から全国の巨人ファンの思いを一身に受けていた。

 王貞治さんが引退した直後の巨人で、入団当初からスターの宿命を背負わされ、その重圧は相当なものがあったことだろう。それでも泣き言は一切言わず、持ち前の明るさで周囲の大きな期待に応えようとしていた。甘いマスクからは想像できないほど「芯」のしっかりした男だった。

「タツ、ちょっと飲みに行くか」。原の大物ぶりは酒の席でも感じられた。常に注目を浴び続ける日ごろのストレスを考えると、酒が入ればグチのひとつもこぼしたくなるところだが…。原は飲めば飲むほどおしゃべりになり、さらに明るくなったのだ。

祝勝会ゴルフで楽しげな定岡(右)と原辰徳(1981年10月、中津川CC)

 くだらない冗談もポンポン飛び出し、ボクたちは2人して大笑い。カラオケが大好きで、よく加山雄三の「ぼくの妹に」を熱唱していた。さすがは「巨人の若大将」。それでストレスを発散させていたのだろう。

 それが原の持って生まれた「スターの資質」とでも言うのだろうか…。今、思い出してみても、あらためて「天性の明るさを持った男なんだなあ」と思っている。

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ

さだおか・しょうじ 1956年11月29日生まれ。鹿児島県出身。鹿児島実業高3年時の74年、ドラフト会議で巨人の1位指名を受け入団。80年にプロ初勝利。その後ローテーションに定着し、江川卓、西本聖らと3本柱を形成するも、85年オフにトレードを拒否して引退を表明。スポーツキャスターに転向後はタレント、野球解説者として幅広く活躍している。184センチ、77キロ、右投げ右打ち。通算成績は215試合51勝42敗3セーブ、防御率3・83。2006年に鹿児島の社会人野球チーム、硬式野球倶楽部「薩摩」の監督に就任。

※この連載は2009年7月7日から10月2日まで全51回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全25回でお届けする予定です。


カッパと記念写真を撮りませんか?1面風フォトフレームもあるよ