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原と同じチームは嫌だ。だったらプロへ行こう【宇野勝連載#2】

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「ショート宇野勝」誕生の裏に先輩篠塚さんの意外な提案

 私がプロで10年以上守ることになるショートだが、銚子商のそのポジションには1つ年上の先輩で後に巨人で大活躍をする篠塚和典さんがいた。野球センスの塊のような先輩の前で私の出る幕などないと思っていたら、そんな篠塚さんから意外な申し出があった。

「ダメだ。やっぱり俺がサードやるわ」

 新チームでサードをやっていた私とのポジションチェンジを提案してきたのだ。今、振り返っても、なぜ篠塚さんが、あの時、こんなことを言ったのかは分からない。ただ、このひと言で「ショート・宇野勝」が誕生した。

紙面連載4(篠塚)

篠塚和典さんがいたからショート宇野が誕生した

 高校に入学した時の最大の目標だった甲子園出場。これは、なかなかかなわなかった。2年の夏の大会は篠塚さんが胸膜炎を発症してしまい、出場できず、チームもあえなく敗戦。3年の春の大会もダメ。正直「これは出れないなぁ」という雰囲気があった。

 そして、最後の夏の大会を控えた春。コーチに呼ばれた。

「もう一度ピッチャーをやれ。じゃないと甲子園に出れないぞ」

 投手復帰の打診だった。当時の私には、どうしても投手をやりたい、という気持ちはなかった。中学時代に1試合で23奪三振を記録したことはある。右ヒジの故障が治って「速いボールはまだ投げれるな」という自負もあったが、結局、私は「もうピッチャーはいいです。多分、甲子園に行けますよ」と言って、コーチからの提案を丁重に断った。

 実はチーム内にある噂がたっていた。チームのもう一人の投手が、背番号1じゃなかったら野球部を辞めると言っているというものだった。その真偽は分からなかった。ただ自分が投手をやることがチームのマイナスになる可能性があるのならやめようと思った。自分はエースになるために銚子商に入ったわけではない。甲子園に行くために入ったのだからと…。

 そんな中で、私が何の確証もなくいいかげんにコーチに言った「甲子園に行けますよ」のひと言。これが現実となった。1976年、私にとって最後の夏の大会で我が銚子商は念願の甲子園出場を決めた。1年の時は先輩のプレーを地元でテレビ観戦したが、今度は自分たちの力でつかんだ。本当にうれしかった。

 甲子園での初戦は8月14日、香川の強豪・高松商が相手だった。試合は延長14回にもつれた接戦を制し、5―3のサヨナラ勝ち。3回戦の東海大一戦にも勝利。準々決勝で、この大会で初優勝を飾った桜美林に敗れた。私は3試合でわずか1安打。残念ながら結果を残すことはできなかったが、甲子園でのプレーは忘れられない思い出だ。

 ベスト8に進出した銚子商は10月に佐賀で行われた国民体育大会に出場。だが、またしても桜美林に敗れ、地元に帰ってきた。そんな時だった。思いもしなかった人が我が家を訪ねてきた。

「東海大で三遊間を!!」タツノリの誘いに私は…

 1976年10月に佐賀で行われた国民体育大会で、私は高校生活最後の試合を終え、地元に帰ってきた。それから数日後のことだ。学校から家に帰るとおふくろが「こんな人が来たよ」と何げなく一枚の名刺を手渡してきた。

 その時のことは今でも思い出す。そこには、クラウンライターライオンズ(現西武)のスカウトの名前が印刷されていた。プロ野球界のことなど全くの無知のおふくろにとっては「こんな人」。だが私にとってはびっくり仰天の出来事だった。初めてプロから誘いの声がかかったのだから。

 銚子商では2学年上の先輩である土屋正勝さんが74年に中日からドラフト1位指名を受け、翌年には篠塚和典さんが巨人のドラフト1位。篠塚さんが指名された時には昼休みの校内放送で「うちの篠塚選手は巨人軍のドラフト1位です」と流れて校内中が沸いたし、当時の銚子商とプロ野球の世界はそこまで遠いものではなかった。

 でも、私には関係ないと思っていた。プロ野球などまるで意識していなかった。土屋さんも篠塚さんも素晴らしい選手。それに比べて自分はそこまでのレベルに達していないと思っていたからだ。今のように周りの評価が分からない時代でもあった。それだけにスカウトが訪ねてきてくれたのは驚きだった。

 クラウンを皮切りにその後は7~8球団ほどのスカウトが来てくれた。だけど、私自身はプロの道に行くのか決めかねていた。都会の人と違ってプロ野球の試合や練習を見たりしたことがない。まるっきり知らない世界に飛び込むことにはやっぱり不安があった。

 プロの他に社会人チームと大学からも誘いがあった。特に熱心だったのは社会人では住友金属鹿島、大学では東海大学。両親はプロ入りに反対でおふくろは「誘いがあるなら大学に行け」と安定した道を進ませたがっていた。

 親父もおふくろもプロ野球のことは無知で「田舎で育った子がプロ野球で成功するわけない」と思っていた。田舎特有の世間体も気にしていた。プロに入って2~3年でクビにでもなったら近所の人に「あそこの勝が帰ってきた」と陰口を言われる。そういう感覚だった。

そんな時、自宅に一本の電話がかかってきた。受話器を取ると何と相手は東海大相模の原辰徳(現巨人監督)だった。彼とは同学年で練習試合で対戦したこともあるし、面識はあったが、電話は初めてだった。

「東海大で一緒に三遊間を守ろう」

紙面連載5(原辰徳)

ドラフト前に東海大相模・原は宇野の自宅に電話をかけてきた

 彼は電話で私にそう言った。すぐにピンときた。ドラフトで注目のタツノリだったが、その時、すでに東海大学への進学を決めていたし、大学の関係者に電話で私を誘うように言われたのだろうってね。

 しかし、皮肉なことにこのタツノリからの電話で、私は東海大への進学をやめてプロ入りを決意することになった。


今じゃ笑い話?スカウトが私の何を評価したのか

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