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パンチパーマの私に大島さんから〝プロの洗礼〟【宇野勝連載#3】

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パンチパーマの私を見た大島さんが「坊主にしてこい」

 1976年のドラフト会議で中日に3位指名され、プロ入りを決心した私だが、厄介な問題があった。両親が反対していたことだ。どうやって説得すればいいのか。毎日、そればかりに頭を悩ましていたが、そんな時に思ってもみない救世主が現れた。銚子商の2学年先輩で74年の中日ドラフト1位・土屋正勝さんが、交渉中の私の家を訪ねてきてくれたのだ。

「田舎が近いから帰ってきたついでに寄った」

 土屋さんはそうおっしゃっていたが、なかなか入団が決まらない状況を心配して来てくれたのだろう。その効果はてきめんだった。両親も昔から土屋さんを知っている。その人がチームのこと、合宿所のことなど「これこれこうなんで」と細かく説明してくれたことで両親もプロ入りへの不安がなくなっていった。土屋さんを送っていった時「どうするんだ」と聞かれ「多分、入ります」と答えた。その足で家に帰り、両親に「もう(プロに)行くわ」と宣言。両親も納得してくれた。

宇野が中日に入団(1976年12月)

中日に入団した宇野(1976年12月)

 年明けからいよいよプロ野球選手としてスタート。初めて経験したナゴヤ球場での合同自主トレではいきなり大島康徳さんにやられた。大島さんといえば、後に本塁打王を獲得、2000安打達成、日本ハムで監督を務めた大選手。当時は26歳。レギュラー目前で勢いに乗っている注目の若手だった。その大島さんがやってきて私の頭を見ながら「おう、格好いいじゃないか」とニヤリとした。

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良き兄貴分だった大島(左)に入団直後の宇野はきつい洗礼を浴びた

 高校時代は坊主頭だったが、野球部を引退してから髪を伸ばしてきた。そして、生涯初となる念願のパーマをかけたばかりだった。もちろん、当時流行のパンチパーマ。ちょっと誇らしい思いだった。しかし、すぐに信じられない言葉を浴びせられた。

「明日までに坊主にしてこい」

 ぼうぜんとする私をよそにさっさと立ち去る大島さん。こうなったら、もうどうしようもない。やるしかない。泣く泣く坊主頭にした。翌日、私を見つけると大島さんは「あっ! 格好いいじゃないか」と、ちゃめっ気たっぷりにまたニヤリ。そんな素直さが良かったのか、それからは大島さんにはよくご飯に連れて行ってもらったり、かわいがってもらった。

 1年目の二軍キャンプは愛知県の蒲郡。驚いたのはその寒さだった。千葉の銚子は案外、暖かいのだが、蒲郡は普通に雪が降ってくる。あれには参った。雪になると「練習やめー」。「プロっていうのはすげー寒いところでキャンプをやるんだな」と思った。

 ただ、この蒲郡キャンプが私にとって、とても大きいものとなる。プロ野球の世界を何も知らずに入った私は不安でいっぱいだった。本当にやっていけるのか、自分でも半信半疑だったが、キャンプが終わるころには「もしかしたら、できるのかもしれない」と自信のようなものが芽生えていた。

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