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プロ6年目で初勝利「よかったな、サダ!」長嶋茂雄監督が満面の笑みで祝福してくれた【定岡正二連載#18】

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5回で交代する予定が長嶋さん、王さんの助言で完封

 1980年3月、岐阜県営球場で行われた近鉄とのオープン戦は、ボクにとって忘れられない試合になった。本来なら先発は新浦壽夫さんの予定だったけど、その新浦さんが直前になって風邪を引いてしまったのだ。「チャンスだ!」。新浦さんには申し訳ないが、あの時は本心からそう思った。そしてボクと藤城和明が一軍投手コーチの杉下茂さんに呼ばれることになった。

「新浦の代わりの先発を、2人のうちのどっちかにやってもらいたいんだが…」。しばしの沈黙の後、杉下さんは「じゃあ、定岡で行くか」。目をぎらつかせたボクを選んでくれたのは、杉下さんの気まぐれだったのかもしれない。

 ただ、あの日の岐阜はホームから外野に向かってフォローの強風が吹く、投手にとっては最悪のコンディションで、しかも相手は前年日本一に輝いた強打の近鉄打線だ。普通の投手なら「嫌だなあ」と考えるところ、あの時のボクは「このチャンスを逃してなるものか」という一心だった。そんな雰囲気を杉下さんも感じ取ってくれたんじゃないだろうか。

 平野光泰、栗橋茂、羽田耕一、チャーリー・マニエル、梨田昌孝と強打者がずらりと並ぶ猛牛打線は迫力満点。だが、今にも雪が降ってきそうな寒風吹きすさぶマウンド上で、ボクは燃えに燃えた。

「赤鬼」ことマニエルも、定岡にはキリキリ舞いさせられた

 とにかく心がけたのは怖がらずに内角を厳しく攻めること。相手の懐に思い切って飛び込み、なおかつそこから微妙に変化させてシンを外す…。その後のボクの投球スタイルを確立させたのも、あの試合だったんじゃないかと思う。

「サダ、逃げるなよ。男なら戦うんだ。思い切って攻めるんだ!」。ベンチから聞こえてくる長嶋茂雄監督の声にも勇気づけられた。王貞治さんは「力むなよ。オレたちが守ってやるからバックを信頼して投げるんだ」と一塁から声をかけてくれた。そういえば「どんな強打者でも得意なコースの近くに弱点があるもんだ」と教えてくれたのは王さんだった。

定岡(手前)のもとに集まる王貞治(右手前)、杉下コーチら(1980年6月、横浜球場)

 そんな王さんの助言もあったから、ボクはやみくもに三振を欲しがるような投手から卒業できたんじゃないかと思っている。打ち気にはやる相手打者の得意コースから、5年間の二軍生活でマスターした小さく落ちるスライダーを、タイミングやコースを少しずつ変えながら投げ込んだ。あのスライダーは今なら「カットボール」というのだろうか。これが面白いように決まり、当初の予定では5回で交代するハズが、気が付いたらすいすいと完封していた。

「サダ、よくやった。でかしたぞ!」。試合後は真っ先に監督の毛むくじゃらの手が伸びてきた。みんなの握手攻めも待っていた。

 プロに入って6年目…。ようやく開幕ローテーション入りを手にした瞬間だった。

先発ローテ入りもなかなか勝ちきれず…

「どうして勝てないんだろう」。名古屋の宿舎近くの公園で自問自答を繰り返した。あれは1980年6月5日の昼下がり。その日の夜にナゴヤ球場で行われる中日戦に、ボクは先発することになっていた。

 この年プロ6年目を迎えたボクは何とか開幕一軍にしがみつき、6番目の先発投手の座をようやく射止めることができた。しかし、安心するのはまだ早い。6番手の先発投手は雨が降って中止の試合があれば、ローテーションはすぐに飛ばされるし、登板間隔が空けば中継ぎなどで投げなければいけない。チャンスを生かすには、少ない登板機会で結果を残し続けるしかなかった。

 だが、ボクはなかなか勝てなかった。それまで2度の先発では、勝利投手の権利を持ったままマウンドを降りながらリリーフ陣が打たれて逆転負け。プロ初勝利はいつもするりと逃げていった。「悪いなあ、サダ…」。すまなそうに声をかけてくれる角盈男に「いいさ、気にするな。また今度頼むよ」と笑顔で返してはみたものの、やはり“焦り”は大きくなる。そうして迎えた6月5日の中日戦は「今日もダメだったらまた二軍に落とされるかも…」。それこそラストチャンスのつもりで臨んだ一戦だった。

角(左)と鹿取(1983年6月、広島空港)

 立ち上がりはこの日も好調だった。5回まで中日打線を3安打無失点に抑え、打線に3点の援護をもらって勝利投手の権利を得ることができた。しかし、6回に雲行きが怪しくなる。井上弘昭さんに2ランを浴びて1点差に詰め寄られてしまったのだ。「また勝てないのか…」。角と交代してベンチで祈るような心境で見守っていても、そんな悪い想像ばかりしてしまう。「何であの場面でホームランを打たれてしまうんだ…」。井上さんへの失投を責めたりもした。試合が終わるまで、とてつもなく長い時間のように感じた。

 それでもボクの後を継いだ角、そして鹿取義隆は「何とか定岡にプロ初勝利をプレゼントしてやろう!」と懸命に投げてくれた。試合は巨人がその後に1点を追加し、4―2でゲームセット! その瞬間「よかったな、サダ!」。長嶋茂雄監督が満面の笑みでボクのところへ飛んできてくれた。あの時は本当にうれしかった。興奮のあまりヒーローインタビューで何をしゃべったかは全く覚えていない。口々に祝福してくれたみんなのくしゃくしゃの笑顔だけが強烈な印象として残っている。

やったぜ! 6年目にしてプロ入り初勝利をマークした定岡は全身で喜びを表した

 インタビューを終え、一番最後にチームバスへと乗り込むと一際大きな拍手がボクを出迎えてくれた。バス後方の自分の座席に向かって歩き始めると「サダ、おめでとう!」。チームメートたちの手が右から左から伸びてきた。王貞治さんの手は豆だらけで硬かったっけ…。あの時のバスの通路はまるで、ふかふかのレッドカーペットのようだった。

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さだおか・しょうじ 1956年11月29日生まれ。鹿児島県出身。鹿児島実業高3年時の74年、ドラフト会議で巨人の1位指名を受け入団。80年にプロ初勝利。その後ローテーションに定着し、江川卓、西本聖らと3本柱を形成するも、85年オフにトレードを拒否して引退を表明。スポーツキャスターに転向後はタレント、野球解説者として幅広く活躍している。184センチ、77キロ、右投げ右打ち。通算成績は215試合51勝42敗3セーブ、防御率3・83。2006年に鹿児島の社会人野球チーム、硬式野球倶楽部「薩摩」の監督に就任。

※この連載は2009年7月7日から10月2日まで全51回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全25回でお届けする予定です。


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