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〝地獄の伊東キャンプ〟に呼ばれず…ボクはひとりぼっちの多摩川【定岡正二連載#17】

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初めて購入した中古のBMWで大問題に!

 怪物投手・江川卓が巨人に入団することになる1978年のオフは、ボクにとって「もうひとつの戦い」が繰り広げられた年でもあった。

〝バトル〟の相手は鬼寮長の武宮敏明さん。クルマが欲しくて欲しくてたまらなかったボクは「そろそろ…。買ってもいいですか?」と連日のように猫なで声で武宮さんのご機嫌をうかがった。免許は高校を卒業する時に取っていて、中井康之さんのクルマで運転の練習をさせてもらうたび「ああ…。自分のクルマが欲しい!」という思いを強くしていた。

 粘り強い説得工作が功を奏したのか、この年のオフについに武宮さんの「OK」が出た。あれは選手寮から「ジャイアンツ号」という白いバンをボクが運転し、武宮さんを京王よみうりランドの駅まで送る途中のこと。
「そこまで言うなら、まあいいか」。天にも昇る気分だった。

定岡のBMWは「幻の愛車」となった

 初めて購入したのは中古のBMW。しかし、ようやく大手を振ってクルマを運転できる喜びで、オレンジ色のBMWを勇んで寮に乗り付けたところ…。これが大問題に発展してしまった。

「定岡が王と同じ外車に乗っている」。誰かがそんなことを武宮さんに告げ口したのだ。確かに当時の王貞治さんもBMWに乗っていたのだが、王さんのは最新式で、ボクのは200万円もしない中古車だ。値段的にも国産車とそれほど変わりがない。

 それでも武宮さんは「外車なんて冗談じゃない!」と烈火のごとく怒り出し、ボクは初めての愛車を泣く泣く手放さざるを得なくなった。

 さよならBMW…。失意のボクが次に選んだのはワーゲンのゴルフだった。もちろんゴルフも外車には違いなかったのだが、ボクには「もしかしてOKしてくれるかも」という予感があった。実際、武宮さんにクルマを見せてみると「地味なクルマじゃないか。これならいいぞ」。こちらが拍子抜けしてしまうぐらい、あっさりOKしてくれた。おそらくは…。一軍の先輩選手が誰も乗っていなかったことが良かったのかもしれない。

 武宮さんとのバトルを経て、ついに愛車を手に入れることができたボクは「一軍で結果を残して、誰にも文句を言われないような選手になろう」と5年目に向けてさらに気合を入れた。迎えた79年のシーズンは、二軍戦でも投げれば勝つという状態が続き、すでに10勝をマーク。いつでも一軍からお呼びがかかってもいいぐらいの状態をキープしていた。

杉下コーチ(右)の指導を受ける定岡。左は長嶋(1978年2月、宮崎)

「どうだ、だいぶ調子がいいらしいじゃないか」。そんな夏のある日、一軍投手コーチの杉下茂さんから選手寮に電話がかかってきた。

 今の自分なら一軍でも結果を出せるという手応えがあった。「チャンスを下さい」。ボクは初めて一軍昇格を直訴した。

ショックを受けた西武へのトレード報道

 1979年、勝負をかけた5年目のシーズンも、ボクは一軍に定着することはできなかった。この年、小林繁さんを阪神に放出し、怪物投手の江川卓を迎えた巨人投手陣は着々と若返りを進めた。9勝をマークした江川投手だけでなく、ボクと同期の西本聖は8勝、ボクより後に入った同い年の藤城和明もローテーション入りし、4勝を挙げた。

 そんな若返った投手陣たちの輪の中に入りたかった…。だが、一軍投手コーチの杉下茂さんに「チャンスを下さい」と初めて直訴したものの、夏場に一軍昇格したボクはシーズン終了まで敗戦処理のままだった。1年前の日米野球・レッズ戦での好投をキッカケに、この年はイースタンでも10勝を挙げた。自分としては「今のオレなら一軍でもやれるはずだ」と自信をつかんでいただけに、ショックも大きかった。

 またしてもむなしいシーズンオフがやってきた。そんなボクに追い打ちをかけたのが「トレード報道」だ。ある日の朝、選手寮の食堂に置いてあるスポーツ紙に「西武、定岡獲得へ」の大見出しが躍った。同僚たちの視線を意識しながら、トイレの中でその新聞をじっくりと読んだ。「自分はもう、巨人に必要とされていないんだろうか…」。そう思うと悲しい思いが込み上げてきた。

 それだけではない。ほかのマスコミも「長嶋構想から外れた定岡」という論調で書き立てた。何しろ5年も結果を残していないのだから、無理のないことかもしれない。しかもこの年、5位に終わった巨人は「地獄の伊東キャンプ」を敢行。長嶋茂雄監督は広島と近鉄の対戦となった日本シリーズ第1戦のプレーボールと同時に、若い選手を静岡・伊東に集合させた。そのメンバーにボクは選ばれなかったのだ。

伊東キャンプに選抜された投手陣。左から江川、角、藤城、鹿取(1979年11月)

 投手陣で選抜されたのは江川、西本、藤城、角盈男、鹿取義隆、赤嶺賢勇らで、ベテランの堀内恒夫さん、新浦壽夫さん、加藤初さんたちは参加しなかった。寂しく多摩川グラウンドで練習しているボクに、新聞記者たちは「悔しくないのか」と聞いてきた。翌日の記事では「一人ぼっちの多摩川」とからかわれた。だが、あの時の真相はそうではない。伊東キャンプ前、ボクは長嶋さんから電話をもらっていた。

「どうだ、腰の方は?」。実は3年目のシーズンに腰を痛めていて、良くはなっていたものの、まだ「完治」というわけにはいかなかった。長嶋さんはそれをお見通しで「お前は腰を完全に治してから、春のキャンプで勝負をかけてこい。いいか、焦らずやれよ」と言ってくれたのだ。

 ただ、伊東キャンプの様子が気にならないわけがない。「オレがこうしている間にもあいつらは…」。そう思うと居ても立ってもいられなくなる。そんな時に「焦らずやれよ」。長嶋さんの言葉を何度も自分に言い聞かせた。

「地獄」と呼ばれた伊東キャンプで、江川(手前)らの投げ込みを見守る長嶋監督(左)

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※この連載は2009年7月7日から10月2日まで全51回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全25回でお届けする予定です。


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