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1978年〝怪物〟江川卓が入団「なんだあいつは」「嫌なやつが来た」【定岡正二連載#16】

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ジャイアンツ寮に伝わる格言「4階でダメなやつは田舎に帰るしかない」

 阪神の主砲・田淵幸一さんに浴びた満塁ホームランで再び二軍に落ちたボクは、プロ3年目のシーズンも一軍に定着することはできなかった。

 巨人の二軍にはこんな「格言」がある。選手寮は4階建てでルーキーが2階の部屋を使用し、1年ごとに上の階へと上がっていく。3年目のシーズンが終わったボクはいよいよ最上階の4階へ…。その上は屋上しかないから「4階でだめなやつは、荷物をまとめて田舎に帰るしかない」と言われていた。

 だが、最後のシーズンになるかもしれない4年目も、あっという間に終わってしまった。「いよいよ終わりか…」。失意のボクに「どうせなら杉山の記録を狙ってみろよ」なんて軽口を飛ばしてきた先輩もいた。当時の寮生活の記録は杉山茂さんの9年…。しかし、この4年目の秋に思いもよらないチャンスが巡ってきた。

 1978年10月26日、大リーグの名門シンシナティ・レッズが来日。巨人を主体とした全日本、連合チームと各地で17試合の親善試合を行った。「ビッグ・レッド・マシン」と呼ばれた70年代の大リーグ最強チームは、ピート・ローズ、ジョニー・ベンチ、ケン・グリフィー、ジョージ・フォスターらの超一流の選手たちが顔を揃え、その試合に来季のテストの意味もあってボクが先発することになったのだ。

「定岡、熊本はお前が投げろ」。投手コーチの杉下茂さんからそう言われた時は、思わず武者震いした。出番は熊本・藤崎台球場で行われた11月17日の第14戦。「これがラストチャンスになるかもしれない」と思うと、前夜は緊張してなかなか眠れなかった。

レッズ戦の先発に抜てきされた定岡は、長嶋監督の目の前で快投を披露した

「悔いの残らないよう、自分のすべてを出し尽くそう」。マウンド上ではそう思ってとにかくしゃにむに投げた。すると5回まではわずか1安打と完璧なピッチングでレッズ打線を抑えることができた。6回にフォスター、ベンチに連続本塁打を浴びて降板したが、6回途中3失点なら上々の内容だったと思う。監督の長嶋茂雄さんも満面の笑みで出迎えてくれた。「大リーグ相手にこれだけ投げられたんだ。この自信を来季に生かしてほしいな」。翌日のスポーツ紙には、そんなうれしいコメントも載っていた。

 それだけではない。ボクを大きく勇気づけてくれたのはピート・ローズのこんな談話だった。「前半のようなピッチングができれば、文句なしに大リーグでも通用する。将来が楽しみな投手だね」。オレはやれるんだ――。そう思うと5年目へ向けて闘志がむくむくとわいてきた。もっともっと練習しよう。新しいボールを覚えよう…。

巨人のコーチ陣を背に打撃指導するピート・ローズ(1978年11月、ナゴヤ球場)

 ボクが思いを新たにしているころ、巨人に怪物投手が入団した。江川卓。入団の経緯が経緯だったことから「とんでもないやつが入ってきたな…」と、思わずまゆをひそめた。

江川卓は甲子園でもオーラたっぷりだった

 今でも強烈な印象が残っている。ボクが“怪物”に初めて会ったのは1973年の夏の甲子園、開会式の入場行進直前のことだった。出場校全選手が右翼席の外側に待機していて、クリーム色の作新学院のユニホームに身を包んだ「江川卓」は存在感たっぷり。周囲を寄せつけないオーラのようなものを発していた。

 お尻がとてつもなく大きくて、帽子からはみ出た大きな耳が印象的だった。「これが江川か…。でかい耳だなあ。全国にはこんなすごいやつもいるんだ」。この時のボクは高校2年生。3年生の江川投手は優に150キロは超えていたであろうボールを投げ「怪物」と騒がれていた。

 そんな怪物投手は73年のドラフト会議で阪急(現オリックス)に1位指名され、これを拒否。法大に進み77年のドラフト会議ではクラウンライター(現西武)からの1位指名も拒否して1年浪人した。78年のドラフト会議前にいわゆる「空白の1日事件」で巨人入りを電撃表明。巨人がドラフト会議をボイコットしたりするなどすったもんだの揚げ句、阪神に指名された江川投手は小林繁さんとのトレードで巨人に入団することになった。

「空白の1日」を利用し、江川(右)の巨人入りを発表する正力オーナー

 完全に悪役となったルーキーは、会見で詰め寄る記者を「興奮しないでください」とたしなめる場面も。そんなやり取りをテレビで見ていたボクたちは「何だあいつは!」「嫌なやつが入ってきたな」と思った。だから巨人に入団してからも、誰も近付こうとはしなかった。キャッチボールの相手もいない異様な練習風景がしばらく続いた。

 ボクたちの見る目が変わったのは数日後のことだ。巨人では新人が先輩たちのグラブやスパイクを磨くことになっている。あのころは年齢で上下関係が決まるところもあったから、スパイク磨きは本来なら江川投手より1つ年下のボクの仕事なのに「いいよ、オレの仕事だからオレがやる」といくら言っても「いや、自分がやりますから」と言って聞かなかった。そんな毎日が続いていくうちに先輩たちも「あいつ、もしかしていいやつなんじゃないか」「悪い人間じゃないのかも…」と思うようになった。

 何よりプロの選手なら、実力があれば相手を素直に認めるもの。「ズドーン!」。ブルペンでうなりを上げるボールを目の当たりにすると「すごいやつだ」と誰もが一目置くようになった。

 それからだ。年下のボクが「マスコミに見つからないプライベートの過ごし方を教えてあげるよ」と誘うようになったのは。思う存分お酒を飲んだり、バカ騒ぎをしたりできる秘密のお店を教えてあげたりした。

仲良さげな江川(左)と定岡(1982年11月、香川・高松)

「サダ、いい店知ってるんだな」。ボクとは違った騒がれ方だったけど、自分だって入団当初の騒がれ方は異常だった。そんな先輩なりのアドバイスはしてあげられたんじゃないかと思っている。

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さだおか・しょうじ 1956年11月29日生まれ。鹿児島県出身。鹿児島実業高3年時の74年、ドラフト会議で巨人の1位指名を受け入団。80年にプロ初勝利。その後ローテーションに定着し、江川卓、西本聖らと3本柱を形成するも、85年オフにトレードを拒否して引退を表明。スポーツキャスターに転向後はタレント、野球解説者として幅広く活躍している。184センチ、77キロ、右投げ右打ち。通算成績は215試合51勝42敗3セーブ、防御率3・83。2006年に鹿児島の社会人野球チーム、硬式野球倶楽部「薩摩」の監督に就任。

※この連載は2009年7月7日から10月2日まで全51回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全25回でお届けする予定です。


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