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田淵幸一さんがボクの一軍定着を2年遅らせた【定岡正二連載#15】

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西本聖の第一印象は「生意気そうなやつだな」

「悪い。オレは遠慮しとくわ」。これが西本聖の口ぐせだった。とにかく食事や飲みに誘っても、ボクたちと行動を共にしようとはしなかった。ほかの選手とは意識して距離を置いているようで「オレはお前たちとは違うんだ!」というオーラをひしひしと感じさせる男だった。

 松山商からドラフト外で入団した西本はボクと同期。入団会見で初めて会った時は「何だか生意気そうなやつだな」というのが第一印象で、仲間とわいわいやっているボクたちに、いつも冷ややかな視線を送った。

西本の切れ味鋭いシュートに、セ・リーグの打者はきりきり舞いさせられた

 そんな西本の存在が気にならないわけがない。ただ、西本はボクたち以上に「あいつらに負けてたまるか!」というライバル意識をむき出しにした。テスト生で入団したというのもあるのだろう。実際、西本の“アピール”にはすさまじいものがあり、猛練習につぐ猛練習で、すぐに二軍のコーチたちも「あいつほどひたむきに練習に打ち込む男も珍しい」と感心し、寮長の武宮敏明さんも「西本の野球に取り組む姿勢を見習え!」とボクらに説教したほどだった。

 だが、西本が頑張れば頑張るほど「オレにはあいつのようなやり方はできない」という思いが強くなった。こっちだって練習をまじめにやっていなかったわけじゃない。野球に取り組む姿勢も、決して西本に負けてはいないと思っていた。遊ぶ時は遊び、やる時はやる。それがプロだと思っていたし、先輩たちからもそう教わった。向こうが「努力」「猛練習」で売るのなら、自分は「他人の知らないところでとことん練習してやろう」と思った。

 一軍に昇格したのは西本が先だった。ボクが二軍でくすぶっているうちに、入団3年目に8勝、4年目に4勝と勝ち星を挙げていき、やがて一軍のローテーション投手の座をつかんだ。一軍に上がっても西本の“デモンストレーション”のような猛練習は変わらない。「今に見ていろ! そのうち追い抜いてやるからな!」。そんな西本の姿は、ボクにとっては大きなモチベーションになった。

 あとになって西本と当時のことを話した際に「あの時はみんなと協調するのが怖かったんだ。自分が自分でなくなるような気がして…」と打ち明けてくれた。「逆境に強い男」と呼ばれた西本なりの思いがあったのだろう。そこで初めてあいつの“プロ意識”を知ることができたような気がした。

引退式で西本(左)にインタビューする定岡(1995年1月、多摩川グラウンド)

 1994年オフ、西本がひっそりとユニホームを脱いだ時には「引退試合をやろう」と仲間に声をかけ、95年1月21日、多摩川グラウンドであいつを送り出した。全くタイプの違うやつだったけど「よきライバル」の西本がいたからこそ、ボクも頑張れたと思っている。

田淵幸一さんに満塁弾浴びて即二軍

 1年目、2年目を二軍で過ごしたボクに「最初のチャンス」がやってきたのは1977年、プロ3年目のシーズンのことだった。

 それまで一軍には練習の手伝いをする打撃投手役として、何度か呼ばれたことはあったけど、この年に8勝を挙げることになる同期の西本聖はすでにほかの一軍の投手たちに交じって練習していた。その姿を横目で見ながら「今に見ていろ!」という思いを強くしていたのだが…。そんなある日、ついに二軍投手コーチの中村稔さんから「定岡、明日から後楽園だ」と言われた。ようやくボクにも「打撃投手」ではなく「投手」として一軍からお呼びがかかったのだ。

 自分でも「3年目が勝負」と思っていたから、とにかく気合が入った。最初は敗戦処理の起用だったけど、そこで結果を出して認められれば、ゆくゆくは先発のチャンスだってもらえるかもしれない。「このチャンスを逃してなるものか」。そんな気持ちで一試合、一試合、こつこつと抑えていったのだが…。ボクの“野望”をぶち壊してくれたのは阪神の主砲・田淵幸一さんだった。

田淵さんのおかげで、かなり遠回りをさせられた

 忘れもしない6月23日、甲子園球場には小雨が降っていた。「ピッチャー・小俣に代わりまして定岡」。そんなアナウンスを背中に受けながら、左翼のブルペンからマウンドに走っていった。一死満塁で迎える打者は田淵さん。大変な場面だったけど、これを抑えればボクの株もぐんと上がる。厳しい場面は望むところだ。

 ボクにとっての「運命の一球」はカーブだった。だが、外角のいいところに決まったハズのボールは次の瞬間、高々と舞い上がる田淵さん特有の放物線を描いて、左翼席へと吸い込まれていった。満塁ホームラン――。雨中のマウンドにぼうぜんと立ち尽くした。

 もちろん次の日からは多摩川での生活が待っていた。あの場面さえ抑えていたら…。ついついそう考えてしまい、立ち直るまでにはしばらく時間がかかった。田淵さんがボクの一軍定着を2年遅らせた。

 それでも打たれたことで「自分に何が足りなかったのか」を、いろいろと考えることができた。技術面はもちろんのこと、一軍では精神面も重要になってくる。あの満塁の場面で「よし、オレの出番だ」という気持ちの準備ができていたかと聞かれると、そうではなかった。もちろん万全の準備をしていても打たれることはある。そしてそこからどう立ち直るのか…。

 あの一発からは、たくさんのことを学ぶことができた。

マウンドを降りる定岡(手前)を見つめる長嶋監督。左は兼任コーチの王貞治、右は杉下茂コーチ(1977年、神宮球場)

 田淵さんにはあの時の恨みを晴らしてやろうと、今でも機会をうかがっているのだが…。ゴルフをやってもあの人だけにはどうしてもかなわない。

 つくづく“天敵”なんだなあと思う。

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さだおか・しょうじ 1956年11月29日生まれ。鹿児島県出身。鹿児島実業高3年時の74年、ドラフト会議で巨人の1位指名を受け入団。80年にプロ初勝利。その後ローテーションに定着し、江川卓、西本聖らと3本柱を形成するも、85年オフにトレードを拒否して引退を表明。スポーツキャスターに転向後はタレント、野球解説者として幅広く活躍している。184センチ、77キロ、右投げ右打ち。通算成績は215試合51勝42敗3セーブ、防御率3・83。2006年に鹿児島の社会人野球チーム、硬式野球倶楽部「薩摩」の監督に就任。

※この連載は2009年7月7日から10月2日まで全51回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全25回でお届けする予定です。


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