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〝定岡三兄弟〟はオヤジの特設マウンドで鍛えられた【定岡正二連載#3】

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兄・智秋の南海入りでプロを意識

「さあ、どんどん投げてこい!」。あれは小学校2年生の時のことだったと思う。ボクの“初マウンド”は鹿児島・吉野町の実家前にある空き地に作られた専用マウンドだった。オヤジがリヤカーいっぱいの土をどこからか積んできてはせっせと固め、特設マウンドに仕立て上げた。

 父の清治は野球が大好きで、ボクたち兄弟は連日のようにオヤジの作ったマウンドから投球練習をさせられる日々が続いた。学校から帰るとオヤジが家の前で待ち伏せしていて「今日もやるぞ!」。そこで3つ年上の兄・定岡智秋とボクは代わる代わるマウンドに登り「そんなボールじゃダメだ!」「まだまだ!」とキャッチャー役のオヤジが納得するまで投げ込んだ。それを4つ年下の弟・定岡徹久が見守っていた。

南海でプレーした「定岡三兄弟」の長兄・智秋が大きな目標だった

 そんなオヤジの猛特訓のおかげもあって、いわゆる「定岡三兄弟」のボクたちはみんなプロ野球選手になることができたわけだけど、ボクが初めてプロを意識したのは中学校3年生のころだった。鹿児島実業高校のスラッガーとしてプロに注目されていた智秋が、ドラフト3位で南海に指名された。その後、自宅に南海のスカウトが来た時のことだ。隣の部屋で徹久と聞き耳を立てていたボクは「契約金は800万円で…」という言葉に「ええーっ!」と大きな衝撃を受けたのだ。

 あのころの800万円といえばとんでもない金額だ。智秋にはケンカも野球も何をやっても勝てなかったけど、それほどの大金を稼ぎ、親孝行をしてみせた兄貴がとてつもなく大きく、まぶしく見えた。そして「オレだって頑張ればできるんだ!」という思いがむくむくとわいてきたのを覚えている。

 だが、当時のボクは兄貴ほどの選手ではなかった。兄貴どころか幼稚園からのライバル「松元」にどうしても勝てなかった。背も高く頭ひとつ抜けていた松元は、いつも子分を5~6人引き連れていて野球部でもエースで4番。小学校の時の陸上大会でボクがソフトボール投げの新記録を作ったら、あっさり記録を更新されたこともあった。とてもじゃないが野球ではかなわない。だからボクは投手をやることもなく、三塁を守っていた。

 それでも中学3年になると背が驚くほどぐんぐん伸びた。夜、寝ている時には自分の関節がギシギシと音を立てて伸びているのを実感したほどだ。

 中学入学時の背の順は、前から数えた方が早かったのに、あっという間に180センチを超えた。

息の合ったチームワークを披露する定岡兄弟。正二(右)と智秋(1980年12月)

 そんなある日のこと、鹿児島実業の久保克之監督が自宅にやって来た。一人で留守番をしていたボクが「兄貴なら家にはいませんよ」と言うと、久保監督は「智秋じゃない。君に会いに来たんだ」。この言葉がなかったら…。

鹿児島実業に進学し2年夏、初めての甲子園は足が震えた

「どうだ、鹿実で野球をやらんか?」。ボクが中学3年のある日のこと。自宅にやって来た鹿児島実業高校・久保克之監督のこの言葉で、ボクの運命は変わった。

「鹿実」はその年のドラフトで南海に3位で指名された兄・智秋が通っていた高校で、それまで甲子園に夏6回、春2回出場していた名門だ。県内ではその鹿実と「鹿商」こと鹿児島商業高校、そして今は樟南に名前が変わった鹿児島商工が「3強」と呼ばれていたのだが、智秋がいた時の鹿実は一度も甲子園に行くことができなかった。そんなこともあって久保監督はボクをスカウトしに来たのだった。

鹿児島実業OBの杉内俊哉コーチ(左)、本多雄一コーチ(右)と記念撮影に納まる鹿児島実業元監督の久保克之氏(2024年3月、鹿児島・平和リース球場)

 中学時代のボクは内野手でそれほど目立った選手ではなかったと思うが、身長は180センチを超え、肩にも自信があったし足も速かった。それで久保監督は「鍛えればものになる」と思ったのかもしれない。だが、それからが「地獄」の始まりだった。鹿実で過ごした練習の日々は、間違いなくボクの野球人生の中で一番厳しいものになった。

「この人、本当の鬼だよ…」。猛練習はもちろんのこと、久保監督にはたくさんの“愛のムチ”を浴びた。とにかく礼儀に厳しい人で、言葉遣いやあいさつなどがなっていなかったり、練習態度が悪かったりすると容赦なくげんこつが飛んできた。野球部のグラウンドは校舎から3キロほど離れた山の上を切り開いた場所にあったから、1年生はバットやヘルメットなど、両手いっぱいの道具を持って3キロの坂道を走る。歩くことは許されなかった。そして練習が終わればまた、道具を持って坂道を駆け下りた。何度「このままグラウンドに置いておけばいいのに」と思ったことか…。家に帰るとそのままばったりと倒れて眠るような日々が続いた。

 そんなボクが試合に出られるようになったのは、3年生が引退し、新チームが結成された1年の秋からだ。

「定岡、ショートを守ってみろ」という監督の言葉に大感激したことを覚えている。強肩を買われて右翼を守ったこともあったが、投手としてのデビューはまだ先のことだ。

鹿児島実業時代の地獄のような猛練習の日々も、今となってはいい思い出だ

 そして2年の夏に甲子園に出場。入場行進では足が震え、試合は代打で出場し、いい当たりのセカンドライナーだった。1回戦の日大山形に1―2で敗れて、あっという間に終わった夏だったけれど「甲子園」というものを経験できただけでも、ボクたち2年生には大きな経験になった。3年生には申し訳なかったが、鹿児島に帰る特急電車の中で「来年こそは甲子園で1勝するんだ!」という思いを強くした。

 もちろん帰った次の日から、すぐに新チームの練習が始まった。いよいよボクたちにとって最後の年が始まる。1年後の夏にあんな死闘を演じるとは、この時はまだ、思ってもみなかった。

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さだおか・しょうじ 1956年11月29日生まれ。鹿児島県出身。鹿児島実業高3年時の74年、ドラフト会議で巨人の1位指名を受け入団。80年にプロ初勝利。その後ローテーションに定着し、江川卓、西本聖らと3本柱を形成するも、85年オフにトレードを拒否して引退を表明。スポーツキャスターに転向後はタレント、野球解説者として幅広く活躍している。184センチ、77キロ、右投げ右打ち。通算成績は215試合51勝42敗3セーブ、防御率3・83。2006年に鹿児島の社会人野球チーム、硬式野球倶楽部「薩摩」の監督に就任。

※この連載は2009年7月7日から10月2日まで全51回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全25回でお届けする予定です。

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