「定岡、アメリカへ行ってこい!」長嶋茂雄さんから仰天指令【定岡正二連載#2】
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球団は態度硬化…そして僕の引退が決まった
「気持ちは変わらないのか」。電話の向こうから独特のかん高い声が聞こえてきた。1985年オフ、トレードを拒否して引退騒動を起こしたボクを心配し、電話をかけてくれたのは元監督で“浪人中”だった長嶋茂雄さんだ。
長嶋さんは監督に就任した直後のドラフトで、ボクを1位指名してくれた人。80年に成績不振の責任を問われ、追われるように巨人のユニホームを脱いでいたけれど、それ以降もボクのことは何かと気にかけてくれた。
そんな恩師にボクは「この球団で始まってこの球団で終わろうと思います」という率直な気持ちを伝えた。「そうか、分かった」。短い会話の中でボクの強い気持ちを理解してくれた長嶋さんは、何とか手を尽くして巨人に残る道を探そうとしてくれたようだ。
だが、球団としては何の“罰”もなしにトレード拒否したボクを巨人に残留させては、ほかの選手に示しがつかない。球団側は日に日に態度を硬化させ、あるフロントの「要するに今すぐ野球を辞めても何の未練もない選手が野球をやっているということだ」という悲しい談話も目にした。そして長谷川実雄球団代表は「個人的なわがままに対して野球協約は何のペナルティーもない。ユニホームを脱ぐのが唯一のペナルティーだろう」という声明を発表。ボクの任意引退が決まった。
「巨人人気を支えた功労者に、一方的なトレード通告は冷たすぎるのでは」「球団はやり方を間違えた」「十分に話し合っていれば、こんなことにはならなかった」。選手仲間たちがそう声を上げてくれたことが、せめてもの慰めだった。
とにかくあの引退騒動の渦中では、いろいろな経験をすることができた。「なぜ?」という気持ちや、悲しい気持ちばかりが強かったが、今は貴重な経験をさせてもらった球団に感謝している。引退してから数年後、正力亨オーナーから食事会に誘われ「頑張ってるな」と声を掛けてもらった。グラウンドで会った長谷川代表も、ボクの仕事ぶりを見て「よかったな」と喜んでくれた。素直にうれしかった。「あれはあれでよかったんだ」。そう思えるようになったのも、長い時間が経過したからなのかもしれないが…。
実際、ボクの事例を踏まえ、以降は選手の気持ちに配慮するなど、巨人ではトレード通告のやり方が改善されたと聞く。ボクの時のような「トレード、決まったから」「嫌ならユニホームを脱げ」という頭ごなしの通告は、なくなったそうだ。そういう意味ではボクが取った行動は無駄ではなかったのかなあと思う。
「これからどうしようか」。引退が決まってからというもの、ボクは毎日ボーッと過ごしていた。そんなある日、長嶋さんから電話がかかってきた。「定岡、アメリカへ行け!」「ええーっ!」。ボクは長嶋さんが何を言っているのか、意味がまったく分からなかった。
ドジャースで〝最後の花道〟
「定岡、アメリカへ行ってこい!」「ええーっ!」。1985年オフ、予想もしなかった長嶋茂雄さんからの“指令”に、ボクはすっとんきょうな声を上げた。
そのころのボクはトレードを拒否して現役を引退。無職になり、自宅で悶々とした日々を送っていた。自分の決断を後悔するようなことはなかったけれど、それまで野球しかしてこなかった男が突然、野球を取り上げられたのだから…。自分の皮膚をはがされたような感覚に襲われ、このまま崩れていくんじゃないかとも思った。そんなボクは周囲からしてみると、何をしでかすか分からない、かなり危険な状況に見えたらしい。
「このままだと定岡は危ない」。長嶋さんもそう感じ、ボクに「最後の花道」を作ってあげようとしてくれたのだった。
「ドジャースで野球をやってこい。もう話はつけてあるから」。電話の向こうの長嶋さんは、いつものように自分のペースでどんどん話を進めていった。最初は言っている意味がよく分からなかったけど、話を聞いているうちにだんだん胸が熱くなってきた。
長嶋さんは親交のあるドジャースのピーター・オマリー会長にわざわざ手紙を書き「定岡を頼む」とボクのベロビーチ・キャンプ合流の約束を取り付けてくれたという。渡米の日取りはあっという間に決まり…。米国へ向かう機中、ボクは「ああ、また野球ができるんだ」と救われたような気持ちになった。
野茂英雄がドジャースに挑戦するのが1995年のことだから、それより9年も前のこと。「ひょっとしてメジャーリーガーになれるかも」なんて思うと、気持ちは高鳴った。「これが最後の野球かもしれない。ここで完全燃焼しよう」。そう思ったボクは1か月間のキャンプにこれまでの野球人生のすべてをぶつけるつもりで取り組んだ。
名捕手のマイク・ソーシアがいて、大エースのフェルナンド・バレンズエラがいる。ベンチにはトミー・ラソーダ監督が座っていて、88年に59回連続無失点のメジャー記録を達成することになるオーレル・ハーシュハイザーとも仲良くなった。
メジャーリーガー相手のエキシビションにも登板した。ひじも肩も壊れてもいいぐらいの気持ちで全力でプレーした。
「野球ってすごいスポーツなんだ」とあらためて感じ、最高に気持ちが良かった。あのキャンプがなかったら、ボクは野球への未練を引きずりながらドロップアウトして“不良”になっていたかもしれない。だから長嶋さんには、感謝してもしきれない。
そんなドジャースでのキャンプがいわば、ボクの“引退試合”だった。不思議なものでそれまで毎日のように見ていた野球の夢は帰国して以来、ほとんど見なくなった。
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※この連載は2009年7月7日から10月2日まで全51回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全25回でお届けする予定です。