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「等々力駅」の読みがわからず、新日本プロレス入団テストにまさかの遅刻【高田延彦連載#4】

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山本小鉄さんが「試験を受ける気はあるのか?バカヤロー!!」

 中学校卒業後、すぐに新日本プロレスの入団テストを受けるつもりだったんですが、結局入団したのは17歳になってからでした。

 というのも、卒業した時点で体重が規定に足りなかったからです。父親との約束で1回しか受けられないから、絶対に落ちることはできない。だから体重が規定に届くのを待って試験を受けたんです。中学を卒業してからは、アルバイトをしながらトレーニングを続けました。

 アルバイトは短期の仕事が多かったです。長期で約束してしまうと練習に影響が出ますから。引っ越し業者に、お酒やお米の配達…、いろいろやりました。バイト代で肉を買ったり、トレーニングのアイテムをまかなったりしました。それでようやく体重が規定に届いたのが17歳の終わり。ところが、やっとの思いでたどり着いた入団テストの当日に、私はとんでもないミスを犯してしまいました。

デビュー前に徹底的に体を鍛え抜いた高田

 遅刻したんです。遅刻どころか道場に着いたら、テストが終わっていた。14歳から約3年間、この日だけを目指してきたのに、行ったらテストが終わっていたんです。

 ある意味、そこは私にとっての集大成です。それなのに大事な試験に遅れて、着いたら終わっていた。遅刻した理由は道場の最寄り駅だった「等々力」駅の読み方や響きが分からなかったからです。電車で「とどろき」とアナウンスがあってもそれが「等々力」と分からず通りすぎてしまった。緊張感もピークに達していたのでしょう。

 気づいた時は焦ったなんてもんじゃない。等々力まで戻ったはいいけど、今度は駅から道場がまたえらく遠いんですよ。歩いて15分ぐらい。しかも初めて行くもんだから、駅から道場までの道にも迷う始末。あれだけ憧れていたんだから下見くらいしておけばよかった(笑い)。

 ようやく道場に着いたら、もう人の気配がなくて「やってしまった。すべてが終わった…」と絶望しました。

 そのまま私は道場の前で立ち尽くしていました。どれくらいの時間だったのかも分からないし、どんな顔をしていたのか想像もつかないけれど、ここでまさかの出来事が起きたんです。当時の新日本は寮と道場が数メートル離れていて、その間に増築した浴室があった。すると突然そこからでかいバスタオルを巻いてゴムぞうりを履いた山本小鉄さんが出てきて、開口一番「なんだ、お前!!」と怒鳴られたんです。

「鬼の小鉄」との出会いが人生を変えた

 だから私はとっさに遅刻したことと、その理由を説明した。そしたら「バカヤロー!!」と怒鳴られたので「これは、完全に終わったな…」って思いました。そのころの新日本は「表の猪木、裏の小鉄」というイメージだった。その小鉄さんが目の前にいるだけで震え上がるのに、遅刻して怒られているわけですから。

 ところがその後、小鉄さんは思いもよらない言葉を口にしました。「それで、試験を受ける気はあるのか? バカヤロー!! 道場に入って着替えて待ってろ!!」

練習よりもキツかった増量

 入団テストに遅刻して立ち尽くしていたところを幸運にも山本小鉄さんに“発見”された私は、指示通り道場の中に入って恐る恐る待機していました。

 しばらくすると小鉄さんが入ってきて、開口一番「バカヤロー! 遅刻なんて、何考えているんだ!」と怒鳴られました。それでも「やる気あんのか? 本気なのか?」と一通り試験をやってくれたんです。私はレスリング経験なんてなかったけれど、動きを見てくれました。自分がテストをする側になって分かったことですが、やる気とか身体能力のようなものは、一連のレスリングの運動をさせると大体分かるんです。その時は、小林邦昭さんに相手をしてもらい(テストを)少しやって終わりました。

高田の入門テストの相手をした小林邦昭(1980年2月、後楽園ホール)

 遅刻して立ち尽くしていた瞬間、小鉄さんが風呂場から出てこなかったら…私はおそらくこの世界に入っていなかったでしょう。だから小鉄さんはこの世界に私を引っ張ってくれた、大事な恩人なんです。

 それから2週間ほどして新日本プロレスから郵便物が届いた。開ける瞬間の気持ちは何とも言えなかったなあ…。開ける前から、自分が世界の主役みたいな気持ちになっていました。中身は合格通知で、入寮の日や準備する物が書かれていました。

 もう、その瞬間から気持ちが変わった。街を歩いていても「あ、新日本の人だ」とか言われるんじゃないかって思って。また周りの目を気にする性格が再開したんです。周りには関係ないし、そもそも誰も知らないのに(笑い)。まあ、それだけ新日本に対する憧れは大きかった。

 準備期間は1か月くらい。父親はそんなに感情を表す人じゃないんで合格を伝えても「そうか」と。言葉少なに「頑張れ」とか「無理するな」という感じでした。私の気持ちとしては、通知を受け取ったらもう新日本の一員になっていましたから、トレーニングにも一層の負荷をかけて「もう一個人じゃないんだ」と看板を背負っていた。誰も背負わせてないんですが(笑い)。かわいいやつですよ。

山本小鉄(右から3人目)の訓示を聞く高田(中央)ら選手たち(1984年5月、道場)

 1か月はあっという間に過ぎて、入寮の日を迎えました。ちょうどシリーズ巡業中で寮には若手数人しか残っていなかった。それでもようやく新弟子生活がスタートしたのです。もともと体の線が細かったので体重(当時は61~62キロ)を増やす必要があったのですが、これが本当にきつかった。練習もきつかったけど、同様かそれ以上につらかったのが「増量」でした。

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