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帝国海軍志願兵→学生横綱から直接プロレス転向した唯一の男【プロレス語録#21】

 これは「闘将」とうたわれた吉村道明(2003年2月15日死去=享年76)が1973年の引退時に発した後輩たちへのメッセージだ。

 帝国海軍の志願兵出身。終戦後、近畿大学に入学し学生相撲で活躍。卒業後に大阪を中心に活動していた旧・全日本プロレス協会に入門。同団体崩壊後、力道山率いる日本プロレスに移籍。力道山没後は豊登、ヒロ・マツダ、ジャイアント馬場、大木金太郎、アントニオ猪木、坂口征二ら歴代のスター選手をパートナーに、至宝・アジアタッグ王座を守り続けた。

吉村は小沢正志(キラー・カーン)に肩車されて引退試合の花道を引き揚げた

 1971年暮れに猪木が日プロを離脱。翌年にはエースの馬場も離脱したが、吉村は残された坂口征二らと日プロを守り続け、3月3日に母校・近大記念館(大阪)大会にて引退試合を行った。

 タッグの達人と呼ばれつつも、最後はシングルマッチに出陣し、ルーベン・ファレスを必殺の回転エビ固めでフォール。19年間のプロレス人生にピリオドを打った。

 引退直前まで坂口とのタッグで保持し続けたアジアタッグ王座は事前に返上。“吉村遺産”となった同王座は、この日のメーンでキラー・カール・クラップ、カール・フォン・スタイガー組とグレート小鹿、松岡巌鉄組によって争われ、小鹿&松岡組が第27代王者になった。

引退直前まで坂口(左)と至宝・アジアタッグ王座を守った吉村。永源遙(中)の乾杯リハーサルに笑みがこぼれた(72年1月、名古屋)

 吉村は第3代(49年)の学生横綱(全国学生相撲選手権優勝者)としても知られた存在。学生横綱を経てプロレス入りした人材は輪島大士(68、69年)、大黒坊弁慶(79年=元十両花嵐)らがいるが、学生横綱から直接、プロレス転向したのは、後にも先にも吉村だけ。

 またプロレス引退後は母校・近大相撲部顧問としても活躍。現在、朝青龍騒動で何かと話題になる高砂親方(元大関朝潮=近大相撲部出身)の育ての親でもある。




 1963(昭和38)年3月17日。日本プロレス界のホープ・馬場正平が1年8か月にわたる米国修行を終え「第5回ワールドリーグ戦」に参加するために凱旋帰国した。

 これは、帰国した夜に東京・赤坂台町にあった日本プロレス合宿所で眠り、朝を迎えた馬場が、枕を並べて眠った大木金太郎、猪木完至(寛至=アントニオ猪木)に言ったセリフだ。

46年前の貴重な3ショット。左から猪木、馬場、大木。夢と希望と未来があった…

 米国全土で全502試合を消化。世界3大王座に挑戦するなど全米を股にかけて活躍し、大出世を遂げた馬場は、トレーニングと調整のため渡米していた師匠・力道山に伴われて午後7時9分、羽田着のPAA機1便で帰国した。

 その夜は、銀座東急ホテルで力道山とともに記者会見を行った後、馬場は上京していた母・ミツさんと久々の再会。その夜、日プロ合宿所に宿泊した。

 馬場は猪木と大木が使う相部屋へと侵入し、そのまま3人枕を並べて眠る。朝6時10分に目を覚まし「カンちゃん、窓を開けて景色を見せてくれよ」と、猪木に窓を開けてもらい、朝の冷気とともに、1年8か月ぶりとなる日本の朝を満喫。

 見出しのセリフ。馬場はなぜ、1人でトレーニングにも行けないのか?

 それは馬場の渡米中、日本プロレスの道場(力道山道場)が、それまでの日本橋浪花町から、東京・渋谷のリキパレスに移転していたからだ。

 馬場の渡米は61年7月1日。プロレスの殿堂・リキパレスの完成は同年7月30日。馬場はタッチの差で新道場を経験せず、渡米していたのだった。

力道山(奥)と帰国会見に臨む馬場(63年3月、銀座東急ホテル)

※この連載は2008年4月から09年まで全44回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全22回でお届けする予定です。

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