最初は猪木さんの靴下のにおいを嗅いだりしました【高田延彦連載#5】
猪木さんから貴重な言葉をもらった転機の一戦
1980年に新日本プロレスに入門した私を待っていたのは、トレーニングと同様に厳しい「増量」の日々でした。
新弟子時代は慢性胃炎でした。普通にしていても(胃が)うずくんです。毎食、無理やり食べていたから、飯の時間が嫌で嫌で仕方なかった。ボクサーとか格闘家の「減量」って厳しいイメージがありますが、私は「いやいや、増量も厳しいよ」と言いたい。毎食が拷問でした。どんぶり飯を10杯と大量のおかずを食わされて、量が量だから夕食だけで夜7時から深夜12時くらいまでかかるんです。でもそういうことを何年か続けていたら、大したもんで体重は16キロほど増えてある程度の体(77~78キロ)になりました。
猪木さんの付け人に指名されたのは、入門から1年半ほどたったころです。最初は猪木さんの靴下のにおいを嗅いだりしました。あ、もちろん洗ってから(笑い)。今まで果てしなく遠いところにいた人が目の前にいて、それも試合の道具を預かってお世話をするわけです。当時は考えられないことでした。
それでもしばらくすると新日本にいることが日常になり、猪木さんの付け人であることも特別でなくなってくる。最初のころは、あの新日本の(紅白の)シャツを着るのが誇らしかった。そこから一つずついろんなことを卒業する。「増量」とか「強くなる」とか、自分の中で目標ができていく。試合のスキルも上げないといけない。
そんな日々を過ごすうちに大きな転換期が訪れました。猪木さんの付け人になって1年以上がたったころ、試合がしょっぱくて干されてしまったんです。ある地方の試合が終わって控室に戻ると、何人もの先輩からいきなり「何のためにやってんだ」「もう帰れ、辞めろ」と罵倒されました。
その晩は旅館で涙が止まらなかった。そんなことを言われたのは初めてでしたから。“復帰戦”をさせてもらえたのは、そこから約3か月もたってからです。北海道で試合を組んでもらえました。実はその干されている間に、ある先輩から「若々しさはないし、おとなしいし、第1試合の意味がない。イベントの足を引っ張るだけだ」とアドバイスされました。だからその“復帰戦”では1年先輩の選手と、鼓膜が破れてあごが外れて、鼻血が流れるぐらいの試合をした。
これで会場が沸きました。猪木さんから貴重な言葉をもらったのはこの試合後です。当時はもう第1試合から見るような人じゃなかったんですが「今日みたいな試合をしろ」と声をかけられました。私は「はいっ!!」と元気よく答えた記憶があります。思えばその日が、私のレスラーとしてのターニングポイントとなったのです。
ようやく猪木さんに認めてもらい始めたころに…
新日本プロレスの若手時代、私は3か月ほど干された後の“復帰戦”で、鼓膜が破れてあごが外れるような激しい試合をしました。猪木さんからは「今日みたいな試合しろ」とひと言、褒めてもらいました。
そのすぐ後です。蔵前国技館で猪木さんのタイトルマッチがある大事な大会があったんですが、会社の人から前日に「(猪木)社長の指名で第1試合は高田だから」と言われたんです。選手にとってこんな勲章はないですよ。社長自らが第1試合のカードに口を出すわけだから。まさに「天の声、猪木の声」。自分としても「こういう方向でやっていくんだな」という取り組み方や方向性みたいなものが、見えてきた時期でした。
それから試合も徐々に上のほうになっていって、1983年夏には猪木さんのご家族と一緒に米国に行かせていただきました。その時にちょうどタイガーマスク(初代)がカナダのカルガリーでテレビマッチをやることになった。それを猪木さんが解説をするため、皆でロスからカルガリーへ移動しました。
ところが、その試合直前にタイガーマスクが新日本を辞めてしまった。それで猪木さんから「お前が代役で出ろ」と指名され、テレビマッチに出たんです。そのあたりから、猪木さんとの距離も縮まった気がします。目をかけてもらっている実感もありました。
そして翌84年7月、札幌中島体育センターで大一番を組んでもらいました。WWF(現WWE)ジュニア王者のダイナマイト・キッドに私が挑戦する試合です。決まってから猪木さん、後援者の方と身延山(山梨)に行き、石段の上にある神社に一緒に登ってお参りをしました。すると猪木さんの友人が「『キッドといい試合ができるように頑張れよ』という気持ちを込めて、社長が連れてきてくれたんだぞ」と教えてくれた。「猪木さんはそんなことまで考えてくださったんだ。頑張らなきゃ。こんなチャンスはない!」と気合が入りましたね。
しかし、私はタイトルマッチに出場しませんでした。お参りをした直後、試合まで1か月もない時にユニバーサルプロレス(第1次UWF)から誘いが来て、新日本を飛び出したからです。私は大事な試合にも出場せず、あいさつもしないまま新日本を飛び出しました。ようやく猪木さんに「プロレスラー高田」として認めてもらい始めたころなのに…。正直そのことについては、今でも複雑な思いが残ったままです。そこまで目をかけてもらいながら、私が新日本プロレスを飛び出した理由とは――。
※この連載は2016年11月22日から12月29日まで全22回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全11回でお届けする予定です。