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ウッカリと余計な下半身事情を話したジャイアント馬場【プロレス語録#17】

 全日本プロレス旗揚げ(1973年)から1年。馬場はいよいよ世界最高峰・NWA世界ヘビー級王座取りに向けて本腰を入れ始める。
 
 これは王者ジャック・ブリスコ、前王者のハリー・レイス、元王者のドリー・ファンク・ジュニアを一堂に招いた超豪華シリーズ「NWAチャンピオン・シリーズ」の開幕を控え、不調説がささやかれていた馬場のコメント。本紙の取材に「オレは不調じゃない」と答えたついでに、ウッカリと余計な下半身事情まで話してしまった。

馬場は本紙の取材に対し「オレは不調じゃない」と不満げに答えた

 馬場のNWA挑戦は36歳の誕生日となる1月23日、長崎国際体育館大会と決定。燃える馬場は沖縄巡業中もヒマを見つけては山道をランニング。食欲も旺盛だった。

「腹が減るねえ。この島(沖永良部島)では、あまりいい肉がないので少々こたえたが、代わりに新鮮な魚をたっぷり食べた。最も注意していることは米のメシを食べ過ぎないこと。これは動きが鈍くなるからね。幸い、私はパン食の方が好きだし、この点でも問題はない」と独自の食事論を述べた後「あまり、いばれる話じゃないが…」と、なぜかお尻のデキ物について言及。「栄養が行き渡り過ぎるのかな? ハッハハ」と結んでいる。

 このインタビューから1週間後、馬場はお尻のデキ物ともどもブリスコに挑戦。3本勝負の1本目こそジャンピングネックブリーカーで先取したが、2本目はブリスコの足4の字固めにギブアップ。3本目は4の字の体勢のまま場外転落して両者リングアウト。王座奪取はかなわなかった。

 馬場がブリスコから悲願のNWA世界王座を奪取するのは、この一戦から10か月後の12月2日、鹿児島大会でのこと。

悲願の日本人初NWA世界ヘビー級王座に就いた馬場(74年12月、鹿児島)

 この時、馬場のお尻には“好調の証拠”デキ物はあったのだろうか?


 これはテネシー州メンフィスのスポーツアリーナで行われた南部タッグ選手権で、ヒロ・マツダ&猪木完至(寛至=後のアントニオ猪木)組に敗れ、同王座から転落した怪奇派白覆面タッグ・メディコスの片割れ・1号の悲痛なる叫びだ。

 なぜ悲痛な叫びかというと、メディコ1号&2号はわずか11日前の1月1日にも、NWA世界タッグ王座をマツダ、猪木組に奪われているからだ。新年早々、日本人コンビによって立て続けに、しかも根こそぎ王座を奪われたりすれば、メディコ1号&2号でなくとも、日本人に恨みを抱くのは当然だ。

 南部タッグ王座は、NWA傘下にある米国南部13州が認定する価値あるタイトルだった。怪奇派覆面タッグでありながら、高い実力を持つメディコスはタッグ2冠王に君臨していた。マツダ&猪木と出会うまでは…。

メディコ1号を空手チョップで追い込むマツダ。コーナーの猪木の足元が印象的だ

 当時の猪木は先輩のマツダに合わせて裸足でファイト。3本勝負の1本目こそ、1号が反則攻撃からのニードロップで猪木をフォールしたが、2本目はマツダが空手チョップからの横捨て身で2号を叩きつけてフォールを奪いタイに。そして3本目は猪木がわずか37秒、2号をネックブリーカーで沈め、見事に南部タッグ王座を奪取した。

 王者となったマツダ&猪木はぼうぜんとするメディコ1号&2号を無視して次期挑戦者にエディ・グラハム&サム・スティムボート組を指名。悔しい1号からは前述の言葉が飛び出し、2号も「面白くないことばかりだ…。日本人は空手チョップしか知らないのか?」と吐き捨てている。

 43年後の現在も猪木が「白覆面」にこだわり続けているのも、自分を一生恨んでいるであろうメディコ1号へ、ささやかなオマージュをささげているためかもしれない。 

ベルトを掲げる猪木とマツダ(66年11月、テネシー州ナッシュビル)

※この連載は2008年4月から09年まで全44回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全22回でお届けする予定です。

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