オールスターは先輩選手から学ぶ絶好の勉強の場【石毛宏典連載#7】
広岡達朗さんからチームリーダーの教育を受けた
2012年1月から2月にかけて広岡達朗さんが中日や阪神などでコーチ、選手を指導している光景をニュースで見た。自ら体を動かして説明する姿は今年80歳になったとは思えないほど格好良かった。昔、私を教えてくれた時と全く変わらない。「指導者というのは自分の体で見本を見せられなければいけない」ということを持論にしているだけにきちんと自己管理をしているのだろう。広岡さんの、りんとした姿を見ると55歳の私も「まだまだ頑張らないといかん」と身が引き締まる。
早大でスタープレーヤーだった広岡さんは巨人に入団後も球界を代表する遊撃手だった。引退後は広島、ヤクルトのコーチを経てヤクルトの監督に就任し、1978年には球団史上初の日本一に導いた。その手腕を期待されて西武に招聘されたのだが、管理野球と呼ばれる私生活までに及ぶ規制を選手に課した。選手だけでなく夫人も参加する自然食の講習会なども開かれた。肉はできるだけ避けて野菜中心、白米よりも玄米や雑穀類を摂取しなさいというものだった。私はオフに身のこなしを覚えるために合気道の道場に通うように言われたこともあった。
当初はベテラン選手を中心に不満が噴出したものの、勝つことで納得させた。当時のパ・リーグは前期・後期の2シーズン制。就任1年目の82年に前期優勝という結果を残したのだ。そして、2年目の私に対して広岡さんは野球の基礎を叩き込むだけでなく、チームリーダーとしての教育も施した。このころ、チームの主力には移籍組が多かった。広岡さんはチームのまとめ役が必要だと考えたようだ。私は小学生の時にも先生から「生徒会長をやれ」と言われるなどリーダー的な役割を任せられることが多かった。高校、大学でも主将だったし、すでに選手会の役員を務めていたこともあって私が指名された。
まず広岡さんは「毎日、全員の前で1分間スピーチをしなさい」と言った。試合前のミーティングで監督や担当コーチが話をする。その最後に私がみんなの前でスピーチすることになったのだ。130試合もあるから“ネタ探し”が大変だった。本、新聞を読みあさり、街に出た時も何かネタになりそうなものはないかと考えながら歩くようになっていた。でも、チーム状況などを踏まえて「どういう話をするのがベストか」と毎日、試行錯誤したことは本当に勉強になったし、私の後の人生でも大いに役立つことになる。
82年は後期優勝の日本ハムとのプレーオフを制し、リーグ優勝。日本シリーズでも中日を4勝2敗で破り日本一となった。83年も2位・阪急(現オリックス)に17ゲーム差をつけてリーグ優勝を決めると、巨人との日本シリーズを4勝3敗と制し、2年連続日本一を達成した。根本陸夫さんが戦力整備を行い、広岡さんが選手のレベルを心身ともに高め、勝つための戦略と戦術を駆使することで強豪チームに成長した。ライオンズ黄金時代の幕開けだ。
入団1年目から14年連続で球宴に出場
1997年にコーチ留学のため渡米した時、私のプロ野球16年のキャリアの中で米球界関係者に最も驚かれたのがオールスター出場回数だ。米大リーグの球宴は1年に1試合しかない。選ばれる人数も少なく、スター選手が集まる夢のイベントとしての価値が日本よりも非常に高い。そのため、出場回数の多さは実力の証明にもなるようだ。
私は入団1年目から西武を退団する94年まで14年連続で球宴に出場させてもらった。そのうちファン投票で選出されたのが13回。もっとも、これは私の力というよりはチームが強かったおかげと思っている。やはりファン投票は好調なチームの選手に集まる傾向があるからだ。
球宴では87年の第2戦で同点の7回に決勝3ランを放ってMVPを獲得した。84年の第3戦には巨人の江川卓さんが球宴記録にあと1つと迫る8連続奪三振をマーク。私も記録に“貢献”した。5連続三振で場内がどよめく中、自分が記録を止めてやると気合満々で打席に入ったが、独特の雰囲気もあって振りが大きくなってしまう。あえなく三振してしまった。
そして、私にとって球宴は絶好の勉強の場でもあった。ベンチには実績のある先輩選手がズラリと並ぶ。阪急(現オリックス)の加藤英司さんや福本豊さん、ロッテの有藤道世さん、落合博満さん、南海(現ソフトバンク)の門田博光さん…。聞きたいことはたくさんあった。でも、当時は「教えてください」と言ってもすぐに教えてもらえる時代ではなかった。「知りたかったら見て盗め」という風潮があった。
そこで私はシーズン中から興味のある先輩の動向をできるだけ観察するようにした。例えば門田さんは打撃練習で定位置より少し前で打つことがあった。私は球宴で同じベンチにいる門田さんに「練習の時に前で打っていますけど、どういう効果があるんですか」と聞いた。すると門田さんは「よく見とるな」と感心してくれて、いろいろなことを教えてくれた。きちんと見ていることが相手に伝われば真剣に何かをつかみたいんだな、と思ってもらえるのだ。
人のことをしっかり見て違いに気づく、疑問に思うということはどの分野でも上達するためには大切な方法だと思う。
逆に指導する時も観察眼は重要だ。教えられる側が指導者が自分のことをキチンと見てくれていると分かれば、指摘したことを納得してくれる。そこから指導が始まるのだ。私が広岡達朗さんの言うことを素直に受け入れられたのも、観察に基づく鋭い指摘があったからだ。
83年に2年連続日本一を達成したチームも84年は3位に終わる。ベテランに衰えがみられるようになったことが一因だ。広岡監督もリーグ優勝が絶望的になったシーズン終盤には「どこかでチームを切り替えなければいけない。今は将来のために野球をやっている」と世代交代を本格化させることになる。すでに次世代を担う若手を鍛え上げていた。
※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。