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1985年、東スポの「広岡監督辞任」スクープには驚いた【石毛宏典連載#8】

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秋山幸二、工藤公康、渡辺久信、郭泰源…若手が一気に台頭してV奪回

 プロ野球が1950年に2リーグに分かれてから今年で63回目のシーズンを迎えている(注・紙面掲載当時)。その長い歴史の中でリーグ5連覇以上を達成したのは巨人と西武の2球団だけだ。

 それだけ長期間にわたってチームを高いレベルで維持することは至難の業なのだろう。82、83年と2年連続日本一を達成した西武にも試練は訪れた。連覇を支えたベテランの衰えが顕著となり、84年シーズンは序盤から勝率5割前後を行ったり来たりで最終的には優勝した阪急に14・5ゲーム差をつけられて3位に終わった。

 シーズン終了後には田淵幸一さん、山崎裕之さんが引退した。チームの柱を入れ替える世代交代の時期に突入したのだ。どのチームも直面する難題で、ここで方向性を誤ると低迷期に落ち込む危険もはらんだ非常に大事な時期だ。ただ、この時の西武はチーム編成を取り仕切る管理部長だった根本陸夫さん広岡達朗監督が早くから世代交代の準備を進めていた。

 根本さんが有望な素材を獲得し、広岡監督が育てていた。広岡監督は一軍で指揮を執る一方でコーチだった森昌彦(現・祇晶)さん、近藤昭仁さんとともに二軍にも足を運び、若い選手を鍛え上げた。午前中は西武球場に隣接する第2球場で二軍を指導し、午後からは一軍の練習と試合。ナイター後にはミーティングもあるため仕事は深夜まで続いていたようだ。首脳陣は自宅に帰らず球場近くに借りたアパートから通うこともあった。その成果もあって85年には一気に若手が台頭する。5年目の秋山幸二が40本塁打を叩き出し、打線の主軸に定着。投手も4年目の工藤公康、2年目の渡辺久信や台湾代表だった郭泰源が先発ローテーションに加わった。

 私も130試合すべてに出場。主に「1番・遊撃」で打率2割8分、27本塁打とチームを引っ張った。チームリーダーとして、それなりの成績を残さないと誰もついてきてくれないという責任感を持ってプレーした。

猛虎フィーバーは社会現象となり球場は大観衆で埋まった(1985年10月、甲子園)

 2年ぶりのリーグ優勝。日本シリーズでは阪神に2勝4敗と敗れたが、印象深いシリーズとなった。阪神は21年ぶりのリーグ優勝ということもあって猛虎フィーバーは社会現象となっていた。特に甲子園球場では第4戦に日本シリーズ最多入場者となる5万1554人が詰め掛けるなど3試合とも5万1000人を超える大観衆。阪神がチャンスの時にはまさにグラウンドが揺れるようなすさまじい応援だった。

 ピンチでマウンドに集まった私たちも「これはすげえな。おい、そんなことを言っている場合じゃないだろ」と思わず状況を忘れてしまうほどだった。これだけの大観衆、応援の中でプレーするのは本当に楽しかった。

1985年の対阪神日本シリーズで敵地・甲子園のマウンドに集まる石毛氏(左)ら西武ナイン

 日本一は逃したものの、若い力も加わってのV奪回は翌年以降に大きな手ごたえをつかむものだった。しかし、その矢先に激震が走った。それを表面化させたのは「東京スポーツ」のスクープ記事だった。

チームの結束が乱れぬよう森祇晶監督が大切にしたこと

 猛虎フィーバーに終始した1985年の日本シリーズが終了してから約1週間後の11月8日、広岡達朗監督の辞任が発表された。理由は健康面の不安だ。確かに広岡さんは痛風を患い、84、85年のシーズン終盤にチームを離れることもあった。

 このニュースをいち早く報じたのが「東京スポーツ」だった。その内容は辞任発表の前日7日までに球団と補強策について話し合ったものの折り合いがつかなかったため退団するというものだった。82年からの5年契約が、もう1年残っていたこともあって私たちも驚くばかりだった。

広岡監督の辞任問題を報じた1985年11月3日付の本紙

 後任には森祇晶監督が就任した。森さんは巨人の捕手としてV9に貢献。引退後はヤクルト、西武で広岡監督のもとバッテリーコーチを務めていた。広岡野球を最も熟知している人物と言ってもいいかもしれない。森さんは監督に就任すると私をキャプテンに指名した。スタッフミーティングにも出席して監督、コーチの考えを理解して選手に伝えるとともに選手の立場からの意見を言わせてもらった。

 さらに、森監督は全体ミーティングの前に私たちベテランだけを集め「この後のミーティングではこういう意図でこういう話をする」と説明する。その上で選手全員に対して同じ話をするのだが、内容によっては不満を抱く選手もいる。その時はミーティング後に私が選手に「監督の真意はこういうことなんだよ」と説明する。監督の言葉では納得できなくても同じ選手の言葉なら通じることもある。森監督はそうやってチームの結束が乱れないように細心の注意を払っていた。

 これが西武が常勝軍団であり続けた要因の一つだ。チームの中には様々な人間関係がある。首脳陣と選手、球団と首脳陣、球団と選手、若手とベテラン…。このうち、どれか一つでもギクシャクすればチームとしての機能は低下してしまう。また、チームが強くなると選手の中にも自信が芽生える。これが時には過信となって不協和音となってしまうことがある。

石毛(左)をキャプテンに指名した森祇晶監督(1987年3月、西武室内)

 野球はチームスポーツだ。個々の力が優れていても、それを一つに結集させなければ勝利には結びつかない。まして1年間の長丁場のペナントレースをレギュラーだけで勝ち抜くことは不可能だ。レギュラー、控え、さらに二軍で力をつけながら一軍を狙う若手。最終的には、この総合力の勝負になる。このためには球団、首脳陣、ベテラン、若手やスタッフが一つの目標に向けて一枚岩になることが必要だ。

 森監督はそういう面を大事にし、私にそのパイプ役という重要な役割を任せてくれた。86年1月、私は合同自主トレに集まった選手の前でこう訓示した。「今年、優勝できなければ去年までの優勝は監督の力になってしまう」。前監督の広岡さんに対して他意があったわけではない。突然の監督交代という“大事件”があった直後の1年は重要な意味を持つ。選手の奮起を促すためにゲキを飛ばしたのだ。私自身も大いに燃えて、このシーズンに臨んだ。

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いしげ・ひろみち 1956年9月22日、千葉県旭市生まれ。市立銚子から駒大、プリンスホテルを経て81年に西武ライオンズにドラフト1位で入団。8回の日本一、11回のリーグ優勝に貢献。新人王(81年)、シーズンMVP(86年)、日本シリーズMVP(88年)、ベストナイン8回、ゴールデングラブ10回、14年連続球宴出場と輝かしい成績を残す。94年オフ、ダイエー(現ソフトバンク)にFA移籍。96年に引退。ダイエー二軍監督、オリックス監督を歴任。その後、四国アイランドリーグを創設するなど各地の独立リーグ設立に尽力。現在は野球教室「石毛野球塾」の塾長を務める。著書は「石毛宏典の『独立リーグ』奮闘記」(アトラス出版)。

※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。

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