見出し画像

「長嶋さんって日本人じゃなかったのか?」と思ってしまったぐらいの強烈な初対面【定岡正二連載#10】

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ

思わず見とれた生ミスターの茶色の瞳

「め、目が茶色だよ…」。これが初めて長嶋茂雄さんと会った時の、紛れもない第一印象だった。1974年秋、新人選手の入団発表が行われた東京・大手町の読売新聞社9階にある巨人球団本部は、大勢の報道陣でごった返した。

 何しろ新生・長嶋ジャイアンツの船出を飾る晴れの日だ。「我が巨人軍は永久に不滅です」という感動的な名言を残し、さっそうとユニホームを脱いだばかりのスーパースターと、ボクたちルーキーはそこで初めて対面できるのだ。ドラフトで指名してもらった時、電話で“生声”を聞かせてもらったけれど、ボクたちは誰もが緊張した面持ちで、監督に就任したばかりの長嶋さんの登場を待っていた。

読売新聞本社で行われた入団会見。長嶋監督の光り輝く瞳に吸い込まれそうになった

 やがて姿を見せた“生ミスター”に、ボクは内心「おおっ!」と声を上げた。長嶋さんは得意の流し目でルーキーたちを見回しながら、ボクと目が合うと「君が定岡君か。頑張れよ~」と声をかけてくれた。キラキラと光り輝く茶色の瞳に、ボクは返事をすることも忘れてすっかり見とれてしまった。肌の色も思ったより白く感じた。本気で「長嶋さんって日本人じゃなかったのか?」と思ってしまったぐらいの強烈な印象が残っている。

 入団発表が終わると、ボクたち新人は後楽園球場へ。いつもテレビで見ていた後楽園は、実際にダッグアウトから見ると意外にも小さく感じた。高い外野フェンスと急斜面のようなスタンドが、そう感じさせたのかもしれない。

 隣には後楽園ゆうえんちがあって、パラシュートのようなゴンドラが上下している。スタンドの向こうには高いビルがそびえていた。大都会のど真ん中にあるテーマパークのような球場は、とにかく大きく感じた甲子園球場とは正反対のイメージだった。「ここで野球をやるんだ」と思うと、何だか不思議な気分になった。

「それではグラウンドに出てみてください」。球団の人から言われて、ボクたちはベンチからグラウンドへと足を踏み入れた。そこで新聞社のカメラマンたちのフラッシュが一斉にたかれたのだが、翌日の新聞に掲載されたその時の写真がもとで、ボクは大目玉を食らってしまった。

長嶋監督(奥)と手の大きさを比べる定岡。革靴を履いていたことがバレてしまった(1974年12月、後楽園球場)

「定岡、校則違反だ!」。鹿児島に戻ったボクは担任の先生から職員室に呼び出されて、こってりと絞られた。鹿児島実業では学生服着用の際には白い運動靴を履くことが校則で義務づけられており、あの時の写真で革靴を履いていたことがバレてしまったのだ。

 それにしても晴れの入団発表の席なのだから、革靴ぐらい履いてもいいじゃないか…。ボクは口をとがらせたけど「校則は校則だ!」ということらしい。あの時の「革靴初体験」も、今となってはいい思い出だ。

プロの練習は〝密度〟が濃くて驚いた

「鹿児島実業高等学校から入りました定岡です。よろしくお願いします!」。多摩川で行われた1975年の合同自主トレ初日、ボクはばか丁寧にそう声を張り上げた。いよいよ新生・長嶋ジャイアンツがスタートする「1月20日」という日は、真新しい背番号「20」のユニホームに袖を通したボクにとっても記念すべき日になった。

 この年の巨人はベロビーチ・キャンプへの出発を控えていたから、自主トレ期間中でもユニホームの着用を許されていた。多摩川には1万5000人ものファンが集まり、マスコミも殺到した。背番号「90」を背負った長嶋茂雄監督がボクの肩に手をかけると、カメラマンのフラッシュが一斉にたかれた。ボクが移動すれば、そのたびにたくさんのファンとマスコミがついてきた。

「すごいな、プロって…」。ファンやマスコミの数もそうだけど、練習の内容にも驚いた。高校に比べたら練習時間はその半分にも満たないけれど、とにかく“密度”が濃いのだ。ボクたち選手はまるでベルトコンベヤーに乗せられた商品のように、休む暇もなく次から次へとメニューをこなしていった。その上、たくさんのファンやマスコミが見ているのだから、疲れた顔もできない…。一日の最後のメニューに組まれた長距離走を何とか走り抜いたボクは、引きつった笑顔を浮かべていた。

定岡(左)の投球練習を見つめる長嶋新監督(1975年2月、宮崎)

 合同自主トレを終えた巨人は、第2次キャンプのベロビーチ行きを前にして第1次キャンプ地の宮崎へ。ボクは鹿児島の実家からオヤジの運転するクルマで宮崎入りした。だが、この頃からボクに対する周囲の風当たりが強くなった。

「長嶋監督は定岡を特別扱いしている」。ベロビーチ行きのメンバーに、高校生ルーキーの中ではただ一人、ボクが選ばれたことから、マスコミはそう書き立てたのだ。最初にメンバーに入っていたのはボクではなく横山忠夫さんで、それを長嶋監督が「定岡を連れて行く」と急に言い出し、直前になって人選が変わったのだという。「横山がかわいそうだ」という人もいたりして…。

 そんな声を吹き飛ばす意味もあって、ボクは宮崎キャンプでギュンギュン飛ばした。ブルペンではほかの投手のボールを横目に「遅いな」と感じたぐらいだ。「プロのピッチャーってこんなもんかよ」「この程度のボールでもやっていけるのか」なんて思ったりもした。今、思い出してもバカなことをしたと思う。キャンプ初日から飛ばしまくるような投手などいるわけがない。プロの調整など何も知らない新人に「ゆっくりやれよ」と言ってブレーキをかけてくれる人はいなかった。

背番号90を背負った長嶋新監督の一挙一動は、大きな注目を集めた

 そんなある日のことだった。「定岡、監督室に来い」と長嶋監督に呼び出された。部屋に入ると「服を脱げ」。これから何が始まるんだろう…。

前の話へ / 連載TOPへ / 次の話へ

さだおか・しょうじ 1956年11月29日生まれ。鹿児島県出身。鹿児島実業高3年時の74年、ドラフト会議で巨人の1位指名を受け入団。80年にプロ初勝利。その後ローテーションに定着し、江川卓、西本聖らと3本柱を形成するも、85年オフにトレードを拒否して引退を表明。スポーツキャスターに転向後はタレント、野球解説者として幅広く活躍している。184センチ、77キロ、右投げ右打ち。通算成績は215試合51勝42敗3セーブ、防御率3・83。2006年に鹿児島の社会人野球チーム、硬式野球倶楽部「薩摩」の監督に就任。

※この連載は2009年7月7日から10月2日まで全51回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全25回でお届けする予定です。


カッパと記念写真を撮りませんか?1面風フォトフレームもあるよ