突如、自宅の電話が鳴って「定岡君?どうも~長嶋です」【定岡正二連載#9】
巨人からドラフト1位指名なんて想像もしなかった
「おい定岡、巨人だぞ! 巨人がドラフト1位だ!」。1974年のあの日、教室は異様な雰囲気に包まれた。トランジスタラジオで中継をこっそり聴いていたクラスメートたちが騒ぎ出し、結果を教えてくれた担任の先生も興奮している。11月19日、東京・日比谷の日生会館で開催されたドラフト会議で、ボクは巨人に1位指名されたのだ。
あの年のドラフトは銚子商の土屋正勝(中日、ロッテ)、土浦日大の工藤一彦(阪神)、横浜高の永川英植(ヤクルト)、そして鹿児島実業のボクが、高校生投手の「四天王」と呼ばれていて、どこの球団が誰を指名するかで注目が集まっていた。だが、ボクの場合は夏の甲子園で東海大相模(神奈川)と延長15回の死闘を演じたことで、急に騒がれるようになった部分もあったから「四天王」の中でもそんなに評価は高くなかったように思う。
だから自分としては上位で指名されるとも思っていなかったし、巨人の1位指名を聞いた瞬間も「えっ、そうなの?」とピンとこなくて「やったぜ!」という感じではなかった。自分の中には「プロでやれたらいいな」という漠然とした思いはあったものの、その一方では「通用しないんじゃないか」という不安もあった。
ドラフト前は「六大学で野球をやるのも面白そうだな」「いや、大学の野球部は上下関係が厳しいっていうしなあ…」「ノンプロならノビノビやれるかも」などと考えていた。あの時、プロの球団で熱心だったのは中日で、巨人はそれほどでもなかったということもある。それでも「プロに入るのなら、巨人戦のテレビ中継があるセ・リーグがいいな」とは思っていた。
そんなボクが「本当に巨人に指名されたんだ」と強く実感させられたのは、ドラフト会議の翌日のことだった。巨人の伊藤菊雄スカウトが自宅にやって来て「巨人軍は来年から長嶋監督が指揮を執ります。新生・巨人軍のため、長嶋監督を支えてください」と指名あいさつ。この言葉を聞いて、ボクは思わず身震いした。10月14日には長嶋さんが「巨人軍は永久に不滅です」と名言を残した引退セレモニーが行われたばかり。野球少年にとってあこがれの存在である長嶋さんを、ボクが支えるんだ――。そう思うと背中に電気が走ったような気がした。次の瞬間、気分はすっかり後楽園球場のマウンドへと飛んでいた。
それから数日後、自宅の電話が鳴った。電話に出たおふくろが「しょ、正二、お前に電話だよ!」と珍しく大きな声を上げたのを覚えている。「誰だろう」と思って受話器を取ると「定岡君? どうも~。長嶋です。巨人は素晴らしいチームだぞ。一緒にやろう!」。驚いたボクは「は、はい! よろしくお願いします!」。声を裏返らせながら、即答した。
同期・田村勲と制服姿で〝銀ブラ〟
「これが東京か…。すげえなあ」。羽田空港から都心に向かうハイヤーの中、きらめく都会のイルミネーションに目を奪われた。
1974年のドラフト会議で巨人から1位指名されたボクは、入団発表に出席するため父の清治と東京にやって来た。まずは球団が用意した出迎えの黒塗りハイヤーに驚き、車窓から流れる夜景に大感動した。高速道路を走るのは初めての体験だった。
球団が手配してくれた宿は東京・湯島にある「花水館」という日本旅館。V9時代から巨人の選手はここで合宿をし、後楽園球場に“出陣”していったという。そこには入団発表に出席するため、日本全国から新人選手たちが集まっていた。大昭和製紙北海道の中山俊之さん、東京農大の倉骨道広さん、協和発酵防府の塩月勝義さん、電電四国の大本則夫さん、春日部工の岡昭彦、都水道局の松原由昌さん、土浦日大の荒川俊男…。松山商の西本聖もその一人だった。
初めて会った“同期”たちの中、ボクが最初に言葉を交わしたのは田村勲だった。手持ちぶさたで宿のロビーに出て行くと「オレ、田村っていうんだ。よろしくな」と声を掛けられた。山口・岩国工からドラフト外で入団したサイドスローの田村は、ひょうきんなところのある男で、とりとめのない話をしているうちにすぐ意気投合した。
「このまま宿でじっとしているのも何だし、ちょっと銀座に行ってみようか」。そう言い出したのは田村の方で「よし、行こう!」。話はすぐにまとまった。学生服に身を包んだ田舎者の2人は、タクシーを拾って銀座へと繰り出した。
「こ、これが銀座か…」。何をするわけでもなく、ネオンきらめく銀座の街を田村と2人でただ、歩き回った。しゃれたお店のショーウインドーをのぞいてみては、エスカレーターを上下する。ボクたちは「銀ブラ」を気取っていたけれど、周囲からしてみれば、ただの「おのぼりさん」にしか見えなかったことだろう。「でかい街だなあ」。とにかく鹿児島が誇る繁華街・天文館とはスケールが違った。何をするわけでもなかったけれど、初めて経験した銀座の夜は、とにかく刺激的で楽しかった思い出が残っている。
その田村とは入団1年目から運よく合宿所で相部屋になることができたりして、とにかくうまが合った。酒が大好きなやつでよく飲みにも行ったし、あいつがいたから厳しい練習も乗り越えられた。
だが、何の因縁なんだろう。ボクの同期たちには若くして死んでしまった者が多く、田村も肝臓を悪くして2000年に43歳の若さで亡くなってしまった。
今でも銀座の街を歩いていると、ふとあいつの人懐っこい笑顔を思い出す。
※この連載は2009年7月7日から10月2日まで全51回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全25回でお届けする予定です。