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6度の日本一に導きながらも「つまらない野球」と批判された森祇晶監督【石毛宏典連載#10】

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勝つための習慣が体に染みついていた常勝軍団

 西武は1985年からリーグ4連覇、90年からはパ・リーグでは初となる5連覇を達成する。この10年間で9回のリーグ優勝、6度の日本一。V逸した89年も優勝した近鉄とは勝率2厘の差だった。「絶対的な強さの秘密は何だったのですか」と聞かれることも多い。勝つための条件はたくさんある。これらの要素が揃わなければ常勝軍団は完成しなかった。

 まず攻守ともにバランスの取れた戦力が整っていたこと。この戦力を森祇晶監督はじめ首脳陣がしっかりとマネジメントした。例えば試合前には毎日、コーチの伊原春樹さんが全選手に走り込みを課した。80メートル、50メートルといった様々な距離、決められた本数を設定タイム内に走るというものだった。その量は私たちが「試合前にこんなに走ったら試合でバテちゃうよ」と文句を言うほどだったが、伊原さんは聞く耳を持たなかった。

 これも1年間、戦うための準備だった。8月、9月と優勝争いが佳境に入るころに夏の暑さも加わって疲労が顕著になる。でも、シーズン中もしっかりと走り込んでいたおかげで、レギュラー陣は、ほぼ1年通じて出場し、大事な時期の戦力ダウンを最小限に抑えた。選手もオフから公式戦130試合と日本シリーズ7試合の計137試合を戦うつもりで準備していた。勝つためには何をしなければいけないのか。あらゆる面で、その準備をすることが習慣のように体に染み付いていた。

1993年パ・リーグ優勝の祝勝会で乾杯のあいさつをする石毛氏(左)

 象徴的だったのは94年だ。8月上旬に4球団が0・5ゲーム差にひしめく大混戦。これを9月の11連勝で一気に抜け出した。自分たちは心身ともにしっかりと準備をしてきた、という自信があったからこそ大事な局面で力を発揮できたのだ。

 優勝すれば楽しいオフが待っていることも大きなモチベーションとなった。11月に日本シリーズが終わると温泉地でオーバーホール。昼はゴルフをして温泉に入って夜は宴会という夢のような毎日だ。12月になればハワイV旅行。毎年、来年も絶対に楽しいオフを満喫するぞ、と決意を新たにしていた。

 そして、私たちは打撃投手やブルペン捕手、マネジャー、用具係などの裏方が家族とこうしたV旅行を楽しんでいる姿を見ることが何よりもうれしかった。選手がグラウンドで力を発揮できるように陰で朝から晩まで働いてくれている。私たちが頑張って優勝することで、縁の下で我々を支えてくれた裏方をはじめ、みんなが幸せになる。選手の間にも彼らのことを考えずに手を抜くといった身勝手な言動に対してお互いに注意する厳しい雰囲気もできあがっていた。

V旅行で歓迎のキスを受ける清原和博(1988年12月、ハワイ)

 一度、たがが緩んでしまうと戦力や首脳陣の力ではカバーしきれない。緩んだものを元に戻すことは非常に難しくなる。チームを引き締まった状態で維持できたことも常勝軍団であり続けた大きな要因だろう。

 こうして勝利のために全員が力を合わせて黄金時代を築き上げた。ところが…。目指していた“常勝”が現実になると思わぬ批判が噴出した。

「つまらない野球」批判にナインは憤慨した

 リーグ4連覇を達成した1993年オフ、耳を疑ってしまう話が飛び込んできた。

 私が入団した1981年の観客動員数は年間158万1000人。90年の日本シリーズで4勝0敗と巨人を圧倒し、西武の強さを見せつけた翌91年には球団史上最多の198万1000人を記録した。チームの強さに比例するように増えていた観客動員数が93年には162万4000人と約30万人も激減した。

 この理由について西武本社、球団上層部が「当たり前のように勝つ野球がつまらないのでは」と現場に対する批判的な意見を口にするようになったのだ。94年の開幕前には、本社や球団から森祇晶監督に対して「面白い野球をしてほしい」という要望もあったようだ。

 優勝を最大の目標にして野球をやってきた私たちにとっては到底、納得できない話だ。いったい、面白い野球とは何なのか――。1点を争う投手戦なのか。10対9の打撃戦なのか。もし、投手戦をファンが喜ぶのなら「明日は投手戦をします」とアナウンスすればお客さんが来てくれるのか。そうしたところで実際に投手戦となる保証はない。私たちは面白い野球というのがどういう野球なのかがサッパリ分からなかった。「当たり前のことを当たり前にやる」。勝利、優勝に向けて私たちが必死にやってきたことが否定されたような気持ちになっていた。

 陣頭指揮を執っていた森監督は私たち以上に憤慨していたはずだ。監督として9年間で8度のリーグ優勝、6度の日本一に導きながらも「つまらない野球」と批判される形になってしまったのだ。それでも森監督は耐えて指揮を執った。94年のシーズンは序盤から首位争いを展開し、9月3日からの11連勝で一気に混戦を抜け出してリーグ5連覇を達成した。

1994年の日本シリーズで巨人に敗れた西武ナイン(石毛氏は左から2人目)

 私自身は5月下旬に右膝痛が再発し、苦しいシーズンとなった。幸いにも現役時代、骨折、手術などの大きな故障はなかったものの、2年目の82年春季キャンプの紅白戦の守備中に併殺プレーで走者と交錯して左膝内側靱帯を痛めた。85年の日本シリーズでは三塁後方の飛球を追いかけて左翼手と激突し、右膝を打撲した。私も38歳になっており、シーズン中は両膝の古傷や腰痛などに悩まされることも多くなっていた。

 出場試合数も111試合と減り、日本シリーズでも先発出場できたのは3試合だけ。チームも長嶋茂雄監督率いる巨人に2勝4敗と敗れた。前年の93年も野村克也監督が指揮を執るヤクルトに3勝4敗と苦杯をなめており、2年連続で日本一を逃してしまった。

堤義明オーナー(左)に退任あいさつする森祇晶監督(1994年11月)

 日本シリーズが終了した3日後の11月1日、森監督の辞任が決定した。日本シリーズ前に球団に退団を申し入れていたようだ。その後任として私に白羽の矢が立った。入団時からチームリーダーとしての教育も施されており、既定路線だったのかもしれない。11月3日、正式に監督就任を要請された。私は「即答できることではない」と返事を保留した。

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いしげ・ひろみち 1956年9月22日、千葉県旭市生まれ。市立銚子から駒大、プリンスホテルを経て81年に西武ライオンズにドラフト1位で入団。8回の日本一、11回のリーグ優勝に貢献。新人王(81年)、シーズンMVP(86年)、日本シリーズMVP(88年)、ベストナイン8回、ゴールデングラブ10回、14年連続球宴出場と輝かしい成績を残す。94年オフ、ダイエー(現ソフトバンク)にFA移籍。96年に引退。ダイエー二軍監督、オリックス監督を歴任。その後、四国アイランドリーグを創設するなど各地の独立リーグ設立に尽力。現在は野球教室「石毛野球塾」の塾長を務める。著書は「石毛宏典の『独立リーグ』奮闘記」(アトラス出版)。

※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。


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