東海道新幹線の高架壁まで飛んでいった清原和博の衝撃の場外弾【宇野勝連載#9】
不振の私を吹っ切れさせた落合博満さんの言葉
1988年の中日は夏場まで苦しんだ。4月8日のナゴヤ球場での大洋(現DeNA)戦で、いきなりエースの小松辰雄が試合中に右ヒジ痛を訴えて戦線離脱。その後は連敗が続いた。87年オフに平野謙さんとのトレードで西武から移籍した小野和幸が再三連敗をストップする活躍を見せたが、それでもチームは4月を終え5勝11敗。首位・広島に8ゲーム差の最下位スタートだった。
チーム状態が上がってきたのは6月。小松が復帰したこともあって、この月は13勝6敗と大きく勝ち越して3位に浮上した。「行けるんじゃないか」。私自身もそう手応えを感じた。ところが、そこからまさかの連敗地獄が待っていた。7月1日の大洋戦で8試合連続セーブを挙げていた守護神の郭源治が打ち込まれて敗れると、同カードに3連敗。続く巨人との旭川、札幌での3連戦でも3タテを食らってしまった。
1988年にセ・リーグMVPに選出されたときの郭源治
6連敗で首位の巨人とは一気に5ゲーム差に引き離された。試合的には決して悪い内容ではなかった。それでも連敗は連敗。そこで選手もみんな考えた。名古屋に戻り、グラウンドに集まると「こんなはずじゃない」「俺らはやれる」と気合を入れ直した。
シーズン序盤の不振がうそだったかのような快進撃が起きた
次の試合がすごかった。9日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)。1―4と3点リードされた5回に落合博満さんと私、それに川又米利の1イニング3本塁打など打者一巡の猛攻で8得点。この乱打戦を10―9で制すと、翌10日は落合さんと私のアベック本塁打もあって9―2で圧勝した。1日空いた12日の大洋戦(ナゴヤ球場)では9回裏に代打・仁村薫のサヨナラ打が飛び出し3連勝だ。これでチームは完全に勢いに乗った。その後、16日の阪神戦まで6連勝。1敗して、また連勝と快進撃が続いた。
この年、私自身は慣れない二塁へのコンバートもあって決して打撃の成績は良くなかった。そんな時に落合さんに、こう言われた。
「レギュラーはゲームに出ることだ。調子が悪かろうが出ることだ」
何かしら吹っ切れた感じがした。得意の8月に入ると私の打撃の調子も上がってきた。チームの勢いも衰えるどころか増すばかり。この月は7連勝もあって15勝5敗3分けと10の貯金を稼ぎだした。8月31日には優勝マジック31が点灯。あとは、ただマジックを減らすだけだった。
10月7日のヤクルト戦(ナゴヤ球場)で優勝が決まった瞬間のことは今でも鮮明に覚えている。セカンドからボールの軌道が見えるからね。ゲンちゃん(郭)のシンカーを秦真司が空振り三振。試合前、ロッカールームで「誰がウイニングボールを捕るか」と話をしていた。つかんだのはキャッチャーの中村武志だった。
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