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伝説の〝ヘディング事件〟には続きがあったんだ【宇野勝連載#1】

はじめに 

 遊撃守備でおでこにボールを当てる“ヘディング事件”。これで一躍、全国に名を知られたのが宇野勝氏だ。思い切りのいいスイングが持ち味で中日での334本塁打は球団史上最多。明るいキャラクターで「ウーやん」の愛称で親しまれた「白球に愛された男」が、その知られざる豪快野球人生を語る。

スポーツ紙1面をジャックした“ヘディング事件”

 中日で16年、ロッテで2年の1977~94年までの現役生活、さらに、その後の中日でのコーチ時代。いろんなことがあったが、今回の連載ではまず、全国に宇野勝の名を広めた、あの“事件”のことから始めたいと思う。

 81年8月26日、後楽園球場で行われた巨人―中日19回戦。巨人は前年8月4日から連続試合得点中で、これが159試合目だった。中日の先発はエースの星野仙一さん。何でも同僚の小松辰雄と、この巨人の記録を「どっちが先に止めるか」と賭けていたそうだ。当時の私はそんなことは全く知らなかったんだけどね。

 中日が2―0とリードしての7回裏二死二塁。代打の山本功児さんの打球はショートを守る私の後方に高く上がるフライ。懸命にバックして追いかけた。あとは皆さん、知っての通りだろう。ボールはグラブに収まらず、私の額に当たり、跳ね返ったボールが左翼ポールまで転々。二塁走者が生還して、記録ストップとはならなかった。

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世間にその名を知らしめることとなったヘディング事件はその後も宇野についてまわった

 ただ、私はその時「やっちまったなぁ」とは思ったけれど、正直そこまでたいしたこととは思っていなかった。やった張本人であるのだけど、連続得点がどうとかも頭になく、後で聞いて「ああ、そうなんだ」と思ったぐらい。まして、試合には勝っていたから、ちょっとしたミスぐらいに思っていた。

 グラウンドではグラブを叩きつけて悔しがっていた星野さんも宿舎で顔を合わせると「おう! 飯でも行くか?」といつもの調子で声をかけてきてくれた。たまたま、この日はうちの兄貴が友達と試合を見に来ていて、食事をする約束をしていたので行くことはできなかったが「おうおう、そっかそっか。分かった。分かった」というような感じだった。

 しかし、その翌日に“ヘディング事件”の反響の大きさを思い知った。当時スターだった星野さん。試合で勝てばスポーツ紙の1面は星野さんが飾る。ところが、その日は違っていた。全紙が私がボールを頭に当てた場面を1面にしたのだ。星野さんは私の顔を見るなり「俺の1面を取りやがって」とギロリ。あれには参った。

 反響は、その後も続いた。翌日の巨人戦で私は本塁打を打ったのだが、スポーツ紙などの論調は「あんなことをしでかして、次の日にホームランを打つなんて」というものになっていた。数日間は私のところにフライが上がるとスタンドが沸くという奇妙な現象も続いた。

 当時の私はプロ5年目の23歳。まだ若かった。いろいろ言われても平気でヘラヘラ笑っていられた。今となると正直つらい部分があるが…。星野さんに迷惑をかけてしまった“ヘディング事件”だが、実はまだ続きがあった。


大先輩・星野さんのベンツに“ヘディング”

 1981年8月26日の後楽園球場での巨人戦、私の名を全国に広めることになったヘディング事件。中日が2―0とリードしての7回裏二死二塁。代打の山本功児さんのショート後方への打球を私は額で受けてしまった。「何であんなことになったのか?」。何人の人にそう尋ねられ、答えてきたか分からない。ちまたで言われている「照明が目に入った」はあり得ない。球場の上には照明はない。最近は要は単なる下手くそだった、と答えている。

 ただ、言い訳させてもらえるならば、あの当時の人工芝は硬かった。コンクリートの上にちょっと敷いてある感じ。しかも、今の選手は人工芝用にゴム底のスパイクを履くが、当時は土のグラウンドと同じ金属の刃がついたスパイクだった。その状態ではキツイ。あの時は後ろに走ってて、体がかなり揺れていた。あと一つ。レフトを守っていた大島康徳さん、捕れなかったかなぁ…。ヘディング事件が起きて世間からは、怒ってグラブを叩きつけた星野仙一さんと私の関係も注目された。星野さんには若いころから、かわいがってもらった。高卒2年目に二軍守備コーチに就任され、徹底的に私を鍛え上げてくれた恩師である一枝修平さんが、星野さんと同じ明治大学の先輩だったことや、偶然、知り合いが一緒だったこともあって、ご飯などにもよく連れていってもらった。

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〝ヘディング事件〟で星野と宇野の関係も注目された



 星野さんはユニホームの時は怖かったが、ユニホームを脱げば優しい人。オン・オフがしっかりしていた。ただ、時間にはきちっとしないと怒られることはあった。ヘディング事件の当日には試合後、気を使って食事に誘ってくれた。あの日は兄貴が観戦に来ていたので断ったが、名古屋に戻って改めて食事することになった。ナゴヤ球場での試合を終えて2人はそれぞれの自家用車でお店へ。目的地は星野さんいきつけの店だった。

「俺の後についてこい」といわれ、私は車でその後を追った。そんな時だった。いったい私はどこを見ていたのだろう。気づいたらゴツン。何と星野さんの車にぶつけてしまった。全くブレーキを踏んでいないわけではなかったので、軽く当たったぐらいの感じだったと思うが、せっかくご飯に呼んでくれた大先輩の車に…。しかも、星野さんの車はベンツで私のは国産車だ。

「バカ野郎!」

 当然、怒られた。でも次の日になったら、冗談半分に「首が痛い」とか言われ、からかわれた。後日「あの時は参りました」って話したら「参ったのは俺の方だ」って言われた。そりゃそうだよね。

 そんな巨人戦でのヘディング事件で有名になった私だが、次回からはプロ入り前をちょっと振り返ろうと思う。千葉・銚子商時代、私に影響を与えたのは後に巨人のスター選手となる篠塚和典さん原辰徳だった。


銚子商時代“ニンニク治療”で右ヒジ低温やけど

「甲子園に出たい」
 私が千葉の名門で憧れの銚子商に進学したのはその一心だった。1年の夏、1974年第56回全国高等学校野球選手権大会で、後に中日からドラフト1位指名を受けるエースの土屋正勝さんの活躍もあり、我が校は見事に甲子園で全国優勝。しかし、その時の私はベンチ入りできず、学校に居残り。試合はテレビでの応援となり「絶対に自分の力でこの場所に行ってやる」と強く決意したのを思い出す。

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銚子商時代の宇野。右ヒジの故障に苦しんだ

 新チームとなった私の背番号は「1」だったが、エースの座にいたのはあまりにも短い時間だった。春のセンバツに直結する、その年の千葉県の秋季大会の初戦。私は試合前の練習から右ヒジに違和感があった。試合に入ってもそれは消えず、痛みは増してくるばかり。3回を何とか無失点に抑えたが、その時点でとうとう右ヒジは完全にロック状態。全く動かせなくなってしまった。「ヒジがこんなになってしまいました」。私の訴えに斉藤監督は顔色を変え、すぐに交代を告げた。結局、その試合に敗れセンバツの夢はあっけなくついえてしまった。

 その後も右ヒジは一向に回復しなかった。今の医学であれば、おそらく簡単に治ったのだろう。だが、時代が違ったし、まして田舎でのこと。原因はおろか治療法も分からなかった。何でも試した。有名だという鍼灸院ではりを打ち、評判の良い整体院でマッサージもしてもらった。あるコーチからは「ニンニクが効く」とアドバイスされた。ワラをもつかむ思いで刻んだニンニクを右ヒジに当て、ガーゼでグルグル巻きにして登校したが、学校から戻ってガーゼを取って驚いた。ヒジの周りの皮膚がグチュグチュ。ニンニクの成分で低温やけどを起こしてしまっていた。アーモンド大のやけどの痕は今も右ヒジにくっきり残っている。

 右ヒジが曲がっているから打撃練習もできず、そのころの私は、ただひたすら外野を走ってばかりの日々。その間にエースは同い年のピッチャーに代わった。右ヒジは1年の12月ごろに何とかよくなった。何が効いたわけじゃなく、時間が治してくれたと思う。だけど、この故障で私は投手から野手に転向となった。

 そこからは、いろいろなポジションを守った。外野も守ったし、ファーストもサードもやった。でも、プロで10年以上守ることになるショートに空きはなかった。そこには1つ年上の先輩で後に巨人で大活躍する篠塚和典さんがいたからだ。なにしろ、野球センスの塊のような人。バットコントロール、捕る、投げるすべてが素晴らしかった。

 ところが、その篠塚さんから意外な申し出があった。それが、その後の私の野球人生に大きな影響を与えるものだった。

うの・まさる 1958年5月30日生まれ。55歳。千葉県八日市場市(現匝瑳市)出身。右投げ右打ち。銚子商から76年、ドラフト3位で中日に指名され入団。3年目の79年にレギュラーを獲得すると84年に本塁打王に輝くなど強肩強打の遊撃手として長くチームをけん引。82、88年のリーグ優勝にも大きく貢献した。92年10月に千葉ロッテに移籍。94年限りで現役を引退した。2004年から08年まで中日で打撃コーチ、12年に再び打撃コーチ、13年は二軍打撃コーチ兼総合コーチを務めた。

※この連載は2014年2月4日から3月28日まで全31回で紙面に掲載されました。noteでは10回に分けてお届けする予定です。


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