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見知らぬ人から「二流」と言われて陶芸を始めた【石毛宏典連載#9】

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パジャマみたいと不評だった〝最強の青ユニ〟

 常勝・西武のトレードマークといえば上下、ライオンズブルーと呼ばれる青のビジター用ユニホームだった。他球団の選手から「あの上から下まで真っ青なユニホームを見ると勝てる気がせんかった。西武の選手が青のユニホームを着ている時は俺たちの本拠地だったはずなのになぁ」とぼやかれたこともある。私たちはそれほど強かったのだ。ただ、私たちの間では「このユニホームはパジャマみたいだ。早く新しいデザインにしてくれないかな」と、あまり好評ではなかったのだが…。

 森祇晶監督が就任した1986年以降、西武の黄金時代はさらに盤石になった。投手では渡辺久信、工藤公康、郭泰源、石井丈裕、鹿取義隆、潮崎哲也。野手は私をはじめ秋山幸二、清原和博、伊東勤、辻発彦、平野謙さん。投打、打順など様々な面で非常にバランスがとれた充実した戦力構成となった。

西武黄金時代・森祇晶政権を支えた戦力。前列左から石毛、森監督、東尾修、後列左から秋山、清原、辻、工藤、郭、渡辺、伊藤(1987年10月、新阪急ホテル)

 森監督から改めてキャプテンに指名された私は、まず自分の野球に取り組む姿勢に気をつけた。若手が練習に遅れたり、だらけているようなら当然、注意する。そんな時に「石毛さんに言われたら仕方がない」と思われるようにならなければいけない。もちろん私自身も、もっともっと野球をうまくなりたい、と必死に汗を流した。その姿をあえて若手に見せるということを意識したこともあった。

 もう引退した後だっただろうか。工藤や清原に「あのころ、僕たちよく石毛さんに怒られましたよね」と笑いながら言われた。私は「そんなに怒ってないだろうよ」と返したが、確かに工藤や清原はやんちゃだった。遠征先での試合終了後、球場から宿舎に戻るバスの中で2人が騒いでいるところを「この10分、20分の間ぐらい野球のことを考えられんか! 今日の試合の反省をしっかりしろ!」と怒鳴りつけたこともあった。

 2人とも私の叱責を素直に聞いてくれた。他の選手も同じように注意すれば「気をつけます」「すいません」と頭を下げてくれた。しっかりと私の姿を見てくれたのだろう。森監督もリーグ優勝が決定した時には「石毛がすべての面でけん引車となり、ムードメーカーとして若い選手をグイグイ引っ張ってくれた」とコメントしてくれた。本当にうれしかった。

敵地で活躍する石毛氏。上下ブルーのビジターユニホームも王者・西武の象徴だった

 そんな緊張感や責任感もプラスになったのか、個人的にも86年は最高のシーズンになった。打率3割2分9厘、89打点、27本塁打、169安打と自己最高の成績を残した。タイトルには手が届かなかったが、プロ野球を担当する記者の投票によって選ばれるシーズンMVPも獲得した。

 日本シリーズでは広島を相手に3敗1分けと土俵際に追い込まれてからの4連勝。広島とは91年にも対戦した。結果は4勝3敗だったが、赤ヘル軍団の野球に対するひたむきさ、がむしゃらさは素晴らしかった。これが広島という球団の伝統とチームカラーなのだが、この姿勢はいつも勉強させられた。

念願の1億円プレーヤーになったものの…

 日本プロ野球選手会が5月に今年度の年俸調査の結果を発表した。調査対象は選手会に加入している731人で、その1割を超える78人が1億円以上をもらっている。

 私は1988年オフの契約更改で1億円プレーヤーとなった。中日の落合博満さん、南海(現ソフトバンク)の門田博光さん、西武の東尾修さんに続く4人目だった。タイトルを一つも獲得していないにもかかわらず、ここまで球団が年俸を上げてくれたのはチームリーダーとしての働きも評価してくれたからなのだろう。

女優・吉永小百合(右)の激励を受ける石毛(1988年8月)

 私は一流選手の仲間入りができたと誇らしい気持ちだった。ところが、そんな思いを一気に吹き飛ばす出来事があった。それは、あるパーティーでのことだった。全く面識のない人から「あなたは野球選手としては一流かもしれないけど、社会人としては二流だね」と吐き捨てられたのだ。

 88年は4年連続リーグ優勝を達成。日本シリーズも星野仙一さんが率いる中日を4勝1敗で破り3年連続の日本一になった。私は日本シリーズMVPも獲得し、年俸も1億円に到達。まさに、ばら色のオフを満喫するはずだったのだが、ゴルフをしても酒を飲みに行っても面白くない。「二流」という言葉が頭から離れなかった。

 何日か悶々としているうちに「確かに野球一筋でプロに入って金を稼げるようになったけど、社会のことは何も分かっていないな」という思いが湧いてきた。もしかしたら、自分が気づかないうちに傲慢な態度を取っていたのかもしれない。

 このころから自分を見つめ直すというテーマが私の頭の中に増えた。その取り組みの一つが陶芸だった。きっかけは東尾さんに誘われて人間国宝の陶芸家・十四代酒井田柿右衛門さんの個展に行ったことだった。その後も、いろいろな先生の個展に足を運ぶ中、美濃焼を製作している安藤實さんの作風に興味を持った。安藤さんにお願いして毎年1月の自主トレを安藤さんの窯場がある岐阜・多治見で行うようになったのだ。

石毛氏は自分自身を磨くため毎オフ、陶芸に取り組んだ。左は美濃焼の安藤實氏

 午前中はトレーニングをして午後は土と向き合う。これまで私には趣味というものがなかった。静かな場所で土を練り、ろくろをひくことで日常生活のことを忘れ、新たな思いが芽生えてくることもあった。

 作品にも私の心が表れる。1年目はうまくろくろをひくことができずに形の崩れた器ができた。2年目は少し慣れて整ったものができる。私は2年目の作品の方がいいと思っていたのだが、安藤さんは「1年目の方が良かった」と言う。「1年目は無心に一生懸命つくったという気持ちが出ているけど2年目の器は上手につくろうという作為が見えて、つまらん」

 陶芸は野球のためではなく、自分自身を磨くために取り組んだ。当時、つくった作品が自宅に並んでいる。“人としてどう生きるべきか”。この大きなテーマを考えることの重要さを改めて思い出す。

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いしげ・ひろみち 1956年9月22日、千葉県旭市生まれ。市立銚子から駒大、プリンスホテルを経て81年に西武ライオンズにドラフト1位で入団。8回の日本一、11回のリーグ優勝に貢献。新人王(81年)、シーズンMVP(86年)、日本シリーズMVP(88年)、ベストナイン8回、ゴールデングラブ10回、14年連続球宴出場と輝かしい成績を残す。94年オフ、ダイエー(現ソフトバンク)にFA移籍。96年に引退。ダイエー二軍監督、オリックス監督を歴任。その後、四国アイランドリーグを創設するなど各地の独立リーグ設立に尽力。現在は野球教室「石毛野球塾」の塾長を務める。著書は「石毛宏典の『独立リーグ』奮闘記」(アトラス出版)。

※この連載は2012年5月8日から7月13日まで全40回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全20回でお届けする予定です。


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