涙のアメリカ武者修行篇!!【グレート小鹿連載#4】
念願叶った米国遠征!3年間は帰らないと決心したが…
1964年1月、力道山先生亡き後の経営陣は、いわゆる四天王体制(芳の里、吉村道明、豊登、遠藤幸吉)で新たなスタートを切った。リング上はジャイアント馬場さんとアントニオ猪木さんの両巨頭がエースとして君臨した。俺は2年目に「小鹿雷三」のリングネームを豊登さんからいただき、試合順も中盤まで上がり、ギャラも2万円ほどになった。3年目の65年には外国人選手と戦うようになっていた。
力道山の死後、結束を誓う(左から)吉村道明、遠藤幸吉、豊登、芳の里(63年12月、渋谷区力道山道場)
その時期に豊登さんの付け人をやっていた。あの人は酒を飲まないぶん練習がメチャクチャだった。朝、自転車で赤坂の合宿所を出発して八王子までノンストップでこぐんだ。着いたらそば屋でそばを食って休んだだけで、また赤坂へ戻る。往復8時間だ。そりゃあ体は丈夫になるわな。
そして66年末、初めて米国遠征の話も持ち上がった。馬場さん、猪木さんの例を出すまでもなく米国遠征は出世への登竜門だった。67年1月には山本小鉄と星野勘太郎さんが米国に渡り、後に「ヤマハ・ブラザーズ」として爆発的な人気を呼んでいた。
実は星野さんより先に声がかかったのは俺だった。だが米国で暮らす自信がなかったし、実は23歳で嫁さんをもらって娘が生まれていたので断った。違う決断を下していれば、ヤマハも極道コンビも誕生しなかったかもしれない。運命とは不思議なもんだ。
そんな経緯があったから、もう海外は縁がないと思っていた。ところが67年夏、熊さん(大熊元司)と2人で米国に行かないかと会社から打診があった。半分諦めていたから天にも昇る気持ちだった。熊さんとはうまが合う。今回が最後のチャンスだ。俺は「行きます」と即答した。
米国へ出発する小鹿と大熊元司(67年7月)
しかし海外での適応能力がゼロだった。
①英語が全く話せない
②肉とパンが食べられない
③コーヒーが飲めないなど
④ドル札など見たこともない…
それでも不安より期待のほうが上回っていた。「どうにかなるさ」と67年9月、ロサンゼルスに渡った。同年2月に柔道から日本プロレスへ入門した坂口征二の部屋にしばらく居候した。
まずは熊さんと2人そろって丸坊主になって気合を入れ、最低でも3年は帰らないと心に決めた。人づてにテネシー州ナッシュビルのプロモーターを紹介してもらうと、2人でロスから飛行機に乗った。チーム名を「ライジング・サン」に決めて「田吾作スタイル」の悪役に徹した。
米国にはまだ戦後の感情は残っていて、日本人の悪役は憎悪の対象だった。当然、人種差別もあった。だがなめられたら終わりだ。1発殴られたら3発殴り返そう。熊さんとそう決めて、相手のことも考えず暴れ回った。10月にはメインを張るようになり、ギャラも週給400ドルから700ドルと増え、テリトリーはジョージア州アトランタまで拡大した。12月にはテネシー州のタッグ王座も獲得。この時点でもまだ英語は話せなかった。人生、何とかなるもんだ。
坂口征二(右)とタッグを組んだ小鹿(69年8月、カリフォルニア)
アトランタといえば忘れられない事件がある。タッグトーナメントが開催され、俺たちはいつものように地元選手を相手に大暴れした。怒った客がリング上にイスを投げ入れて暴動寸前になった。俺たちはイスを手に身を守るしかない。ところが偶然、制止のためリングに上がった警官に熊さんが投げたイスが当たってしまったんだ。怒った警官は天井に向かって「バン!」と発砲した。一瞬で場内は静まり返り、対戦相手も逃げてしまった。
しかも銃口は熊さんに向けられようとしていた。焦った俺はリング下に隠していたカバンから持っているドル札全部を警官のポケットに「プリーズ、プリーズ」と謝ってネジ込んだ。200ドル(当時で約7万2000円)はあったかな。何とかその場は収まったが、この事件がショックだったのか、熊さんが重度のホームシックにかかってしまい、20キロもやせてしまった。結局、熊さんは68年夏、わずか1年で帰国した。
熊さんのホームシックは有名な話だが、実はそれに拍車をかけたのが4月に亡くなった馬場さんの奥さん(66年に婚約)の元子さんだったんだ。
マスカラスとの抗争は人気を呼んだが家族に嫌がらせが…
重度のホームシックにかかった熊さん(大熊元司)が帰国を決意する決め手になったのは、レコードだった。(ジャイアント馬場夫人の)元子さんがフランク永井や松尾和子のレコードを滞在先のハワイから送ってくれたんだ。
熊さんは大喜びで当時はやっていたポータブルのレコードプレーヤーを買ってきて、試合が終わると毎日酒を飲みながら涙目になって日本の歌謡曲を聴いていた。帰りたくなるのも当然だよな。
魅惑の低音でムード歌謡を切り開いた歌手、フランク永井
俺は一人になってしまったけど、絶対に3年間は帰らないと決めていた。出発の際、日本のマスコミに「小鹿なんて3年も持たない」と言われていたからだ。日本から女房と娘2人を呼んだ。フロリダからカンザスシティーと転戦して、1969年10月にはロサンゼルスを主戦場にする。これが俺の運命を大きく変えた。英雄的存在だった〝仮面貴族〟ミル・マスカラスとの抗争が始まったんだ。
当時、メキシコ系が多かったロスではマスカラスがトップのスーパースターだった。ちょうど大悪党の〝銀髪鬼〟フレッド・ブラッシーの勢いがなくなった時期で、マスカラスに対抗できる悪役が不在だったことが幸いした。しかも最初の試合は毎週水曜に放送されるテレビマッチ。俺はマスカラスの目に塩をすり込んで、わずか12秒でフォール勝ち。彼の持っていたUSヘビー級(ロス地区)王座も奪ってしまった。田吾作スタイルの大悪党「コジカ」の名はあっという間にロス中に広まった。
ロスでマスカラスのUSヘビー級王座に挑戦した小鹿(69年10月24日)
マスカラスとの抗争はロス近辺のサンディエゴ、ロングビーチ、パサディナなどの大会場でも常時4000~5000人以上の観衆を集めるほどのドル箱カードになっていた。そして俺に対するファンの反発は厳しくなっていた。
町を歩けば石や生卵を投げつけられる。駐車した車に傷をつけられ、パンクさせられた。それまで笑顔で迎えてくれていた日本食スーパーの店員からも「お前に売るものはない。もう二度と来ないでくれ!」と罵声を浴びせられた。俺自身は固い決意でリングに上がっていたから、耐えることができた。しかし家族にまで危険が及ぶことだけはガマンできなかった。
ある日、試合を終えてアパートに帰ると、リビングにいるはずの女房と娘2人の姿がない。「おーい、どこだあー」と呼んでも反応がない。3人は一番奥のベッドルームで抱き合いながら声を上げて泣いていた。聞けば部屋の前に屈強な外国人たちが数人押しかけ、ドアを叩いては太鼓のようなものを鳴らして脅しをかけてきたという。
もう限界だ。俺はロスから40キロ以上離れた高級住宅街ハンティントンビーチに豪華な4LDKの一軒家を借りた。プール付きの家に住んだのは人生でこれが最初で最後だ。嫌がらせをしてくるような人間は足を踏み入れることができない場所だ。当時はビッグマッチなら1試合3000ドル(約108万円)を稼いでいたからできたことだった。あのままロスの安アパートに住んでいたら、家族の命にも危険が及んでいたと思う。
最終的にマスカラスとの抗争は半年ほど続き、彼が他の地区に転戦してからも悪役として奮闘した。当時、ロスにあったベルトは7本。その全部を巻いた。東京スポーツでも大きく扱ってくれた。週に1回、航空便でまとめて送ってくれる東スポを読むのが何よりの楽しみだった。
談笑する小鹿とアントニオ猪木(70年3月、ロサンゼルス)
70年になると日本プロレスから「そろそろ帰ってきたらどうか」と電話がかかってくるようになった。その時期、遠征でアントニオ猪木さんがロスを訪れた、リトルトーキョーで朝まで飲んだ。俺の車に立ち小便するほど猪木さんは酔っていたなあ。その時に猪木さんの口から強烈な言葉が飛び出した。
日プロの経営陣に対する不満が爆発したんだ。
「猪木クーデター事件」が密告された瞬間、俺はその場にいた!
「小鹿、日本プロレスは腐敗している。何十人という大男がズラリと揃いながら、自社ビルの一軒すら建設できない。近所のビルは女の子数人の力で建てられたのに情けない話だ」
猪木さんは飲みながら、そう話した。「女の子のビル」とは、当時大人気を誇った西野バレエ団のことだ。由美かおる、金井克子、岸ユキらが人気を集めて、青山に自社ビルを建設していたんだ。
西野バレエ団の(左から)由美かおる、金井克子、岸ユキ
ところが日本プロレスは経営陣の腐敗がひどくて、選手にまで金が回らないというわけだ。俺は妙に納得した。だが我を忘れて興奮するまでではなかった。猪木さんは後年に「会社乗っ取り」を図ったとして追放処分となるのだが、火種はこの時からくすぶっていたことになる。
そんなこともあって気持ちは帰国に傾きかけていた。最初に決めた3年もクリアした。3人目の娘はオハイオで生まれた。1970年10月、俺は3年ぶりに日本へと戻った。
用意されていたのは予想以上の好待遇だ。「グレート」のリングネームは68年に南部のプロモーター、エディ・グラハムがつけてくれた名前だったが、帰国を機に日本でも「グレート小鹿」で通すことにした。凱旋シリーズは当時、秋の人気シリーズだった「NWAワールドタッグリーグ戦」。しかも四天王の一角、吉村道明さんと組んでの出場だ。米国での活躍は会社も認めてくれていた。グレート小鹿として新たなレスラー人生が始まった。
吉村(右)と小鹿の連携は抜群だった(70年10月23日)
この時期に日本プロレスは馬場さん、猪木さんの二枚看板に柔道日本一の坂口征二が加わり、大木金太郎さんも「原爆頭突き」を武器に人気を集めていた。日本のどこへ行っても満員で、テレビの視聴率も常時2ケタをマーク。日プロが最後の輝きを放っていた時期だ。
しかし71年になると会社を大きく揺り動かす事件が起きる。俺はもう選手代表として経営陣にも加わっていた。この時、ある引退した選手の退職金をめぐって経営陣と選手の間で意見の食い違いが出てきた。そりゃそうだろう。当時で1000万円以上の退職金を払うんだから。今だと1億円ほどに相当するんじゃないか。実際に退職金をもらったあるOBは、すぐに青山に喫茶店をオープンするほど金回りがよかった。若い選手から不満が出るのも当然だった。
「そんな余裕があるなら、現役選手のためにセーブすべきじゃないのか」というのが俺も含めた選手サイドの意見だ。そしてこの時期、ついに経営陣に対する猪木さんの不満が暴発した。弁護士と相談し、自分が社長になるよう画策したのだ。これがいわゆる「クーデター事件」だ。計画の直前に上田馬之助さんが経営陣に計画を密告して、猪木さんは除名、追放されることになる。
アントニオ猪木と上田馬之助(71年3月、ロサンゼルス)
決していい加減な証言をしているわけじゃない。俺はその密告があった瞬間、芳の里さん、吉村道明さんと一緒にいたから間違いない。翌日に日プロのプロモーターたちを招待したゴルフ大会が箱根で予定されていた。その打ち合わせを兼ねて幹部連中は都内に集まっていた。そこに上田から「明日大変なことが起きます」と電話が入ったんだ。経営陣がゴルフ大会に行っている間、猪木さんが経営陣を追放する公的行動に出るという。
血相を変えた芳の里さんと吉村さんはゴルフ大会の中止を即決。上田を呼んで事情を聞いた後に帰すと、その後もう一人の〝大物〟を呼んで事情聴取を始めた。
ジャイアント馬場さんだ。(※文中敬称略、構成=文化部専門委員・平塚雅人)
ぐれーと・こじか 本名・小鹿信也。1942年4月28日、北海道・函館市出身。大相撲の出羽海部屋を経て63年5月に日本プロレスでデビュー。60年代末から米国でも活躍。70年代前半はカンフー・リーとしてミル・マスカラスと一大抗争を展開した。73年から全日本プロレスに参戦。故大熊元司さんとの極道コンビでアジアタッグ王座を4度獲得。88年に一度引退後、95年3月に大日本プロレスを旗揚げ。コスプレ社長の異名を取る。現在、国内現役最年長記録更新中。182センチ、97キロ。得意技・極道殺法、チョーク攻撃。
※この連載は2018年10月10日から11月9日まで全18回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を大幅に追加、新たに編集して全6回にわけてお届けする予定です。