涙の「馬場さんそりゃないよ…」篇!!【グレート小鹿連載#5】
猪木さん、馬場さんが去り…日本プロレス崩壊の裏側
1971年11月26日深夜、上田馬之助さんの密告によると、アントニオ猪木さんが明日、幹部不在を狙って弁護士立ち会いの下で役員会を開き、首脳陣を解雇する発表を行うという。あまりに衝撃的な内容だ。上田の話を聞いたのは芳の里さん、吉村道明さん、俺の3人のみだ。だから虚飾は一切ない。「最初は仲間だったけど、大変なことになると思って電話しました。馬場さんも猪木さんと一緒のはずです」と明かした。
上田馬之助(71年5月、静岡)
上田が帰るとジャイアント馬場さんが呼び出され、真意を問われた。馬場さんは「話は聞きましたが、俺は賛成していません」と言う。話が食い違っている。協議の末に猪木さんが予定している時間よりも早く、猪木さんが糾弾しようとしているメンバーで役員会を開くことになった。クーデターの会見を未然に防いで行わせないようにしようというわけだ。とにかくその場は身が刻まれるような緊張感に満ちていた。
ロスで朝まで飲み明かした時に聞いた猪木さんの会社改革案には、俺も気持ちが傾いていたのは事実だ。しかしクーデターはしょせんクーデターだ。会社改革とは違うし、何よりスポンサーやファンへの印象が悪すぎる。社長の芳の里さんは誰とも敵対しない人だったから、なおさらだ。経営陣の高すぎる給料と、放漫な経営方針を変えるという目的のはずだったが、首脳陣を一新した後、猪木さんが事実上の社長に就任するという別次元の大事に変わってしまっていた。それでは俺も賛成できない。
猪木の追放を発表した日本プロレス。前列右が小鹿、中央が坂口
役員会は青山の事務所で午前10時から始まった。その前に芳の里さんは守衛室にこっそり俺を呼んで「猪木が謝った」と説明した。水面下で芳の里さんが気配りを見せたのだろう。急きょ行われた役員会はなぜか何事もないまま終了した。事情を知らなかった役員たちはポカンとしていた。
しかし最終的には猪木さんの計画を快く思わなかった数人の選手の突き上げにより、選手会から71年12月6日、除名処分が下された。事を重く見た会社側も1週間後に追放処分を決めた。処分を受けて猪木さんは日本プロレスを退団。翌72年1月に新日本プロレスの旗揚げを発表する。こうなると組織の崩壊は早い。72年7月には馬場さんが辞表を提出した。
事務所内の全選手パネルから猪木が消えた(71年12月、渋谷)
俺は馬場さんから「出ていく人間と日プロ側が問題を起こさないようにしてほしい。世間的に悪いイメージを与えたくない。(旗揚げ後に)皆の面倒は見る」と言われた。トラブルが起きると独立を陰で後押しした日本テレビが嫌がるからだろう。
退団が明らかになってから8月シリーズ最終戦まで馬場さんは試合に出たんだが、選手の中で「馬場を殺す」と息巻いている大馬鹿者がいた。俺は芳の里さんから馬場さんのボディーガード役を命じられ、宿舎から会場、会場から宿舎、移動中も馬場さんの横を離れなかった。だから当時のタイトルマッチの映像を見ると、必ず横で殺気立った俺が腕を組んで立っているんだ。映像を見た大日本の若い選手は「なんで会長が?」「自分が目立ちたかったんじゃないか?」なんて抜かしているが、それが真相だ。
日本プロレスが崩壊し、最終戦でフリッツ・フォン・エリックと戦う小鹿(73年4月、群馬県吉井町体育館)
その後、馬場さんは10月の全日本プロレス旗揚げに動き出す。俺も好条件で全日本に誘われた。しかし「皆の面倒を見る」と言っていたはずが、俺一人の移籍が条件だという。
弟のようにかわいがっていた坂口征二が猪木さんの新日本に合流する前の73年初頭には「一緒に来てください」とも言われた。でも俺の性分で力道山先生がつくった日本プロレスは見捨てられなかった。大木金太郎さんらと最後まで残ったものの現実は厳しく73年4月、日プロは崩壊した。
全日本プロレスと旧日本プロレスが合同興行開催を発表(73年5月、赤坂プリンス)
今思えば、誰が正しくて誰が間違っていたのかは断言できないが、歴史がおのずと証明しているような気がする。73年6月、俺は馬場さんの全日本に移籍して、一から出直すことにした。しかしそこで再び予想外の言葉を聞くことになる。
2度目の米国遠征は「カンフー・リー」で大ブレーク
1973年6月、俺はジャイアント馬場さんが旗揚げした全日本プロレスの一員となった。同時に生来の商売好きが高じて、東高円寺にスナック「ムース」も開店。女房と娘3人を抱えて心機一転、人生を再スタートした。しかし夏には、馬場さんから「アマリロ(テキサス州)へ行け」と命じられた。冗談じゃないと一度は断った。なぜこの人はここまでドライになれるのだろう。そう思ったのも事実だ。
実は全日本に合流する直前、馬場さんのために新日本プロレス事務所に日本刀を持って殴り込んだことがある。「また小鹿がホラを吹いてる」と当時は言われたもんだが、後年に藤波(辰爾)が事実だったと明かしている。
新日本の中に馬場さんに対するネガティブキャンペーンを張っている男がいた。日本プロレス時代から因縁をつけてきた男だ。俺はそいつがどうしても許せず、日本刀を持って青山の事務所に殴り込んだ。事務員しかいなかったが、後日、藤波の談によると事務員が「藤波さん、逃げてください」と奥に隠したらしい。レスラーがいたら、小鹿は何をしでかすか分からないという判断だったらしい。確かに「誰もいません」と言われ、黙って帰ってきた記憶がある。
そこまでしている俺に対し、馬場さんは家族とまた離れ、2度目の米国遠征を命じた。あんまりじゃないか――そう思ったが、聞けばこの年の6月に亡くなったドリー・ファンク・シニア(ファンク兄弟の父親)が「俺が死んだ後も小鹿を呼べ」と遺言のようなものを残していたらしい。
結局断りきれず、レフェリーのジョー樋口さんに相談すると「今、米国はブルース・リーが大ブームだからリングネームは『カンフー』がいいぞ」なんて言う。俺も少しちょっとその気になって「カンフー・ムース、いやカンフー・リーか…」と前向きになった。原宿の専門店でチャイナドレスと帽子を仕立てた。既製服だと当時で50万円したが、5万円で立派なものを作って10月にアマリロへ旅立った。
カンフー・リーに変身した小鹿。テキサスで大人気の悪役となった
想像以上にカンフー・リーは大受けした。デビュー戦はテレビマッチでキラー・カール・コックスと引き分けた。メガネまでかけた俺の扮装は完璧で、当時、米国修行していたジャンボ(鶴田)が控室で俺とは分からず「エクスキューズ・ミー」と言って前を通るほどだった。そりゃあ米国人は中国人と信じるわな。テリー・ファンクとの抗争で人気は一気に爆発。同年10月18日にはテリーからNWAウエスタンステーツヘビー級王座を奪った。
ダラスへ移るとフリッツ・フォン・エリックにかわいがられ「永住権を取ってやる」とまで言われた。しかし日本を捨てる気はなかった。その年の5月までNWA世界ヘビー級王者だったドリー・ファンク・ジュニアとも30分ドローを展開。日本に戻れば中堅だから、俺が戦えるレベルの選手ではない。そう考えると気分が良かった。現地では堂々たるメインイベンターとなった。俺がダラスへ移った後の75年12月にテリーはNWA世界王者となった。それもまた心地良い出来事だった。
カンフー・リー(右)とミスター・ヒト(=安達勝治)のタッグ(74年4月、フロリダ州タンパ)
そうしてようやく帰国の日が訪れた。76年9月、俺はようやく家族の元に帰った。しかし女房との関係は最悪になっていた。結果的には離婚したので、今となってはあまり思い出したくはない。それもボスである馬場さんが遠因だったからだ。
熊さんとの「極道コンビ」が任された重要な〝仕事〟
1976年9月、俺は堂々たるアマリロ、ダラス地区のメインイベンターとして帰国した。熊さん(大熊元司)との極道コンビは準メインクラス。トップは馬場さんたちに任せていればいい。俺は自分の仕事に徹することを決意した。
しかし帰国すると女房との関係は冷え切ってしまった。俺の留守中に会社へ給料をもらいに行くと、嫌みを言われたという。「なぜ日本にいないあんたの亭主の給料を払わなければいけないのか」といった趣旨だ。無念だった。残念ながら馬場さんにはそういう部分があった。経営者としては優秀かもしれない。しかし「イエスマン」以外の人間には冷酷に徹することできる。それは配下の選手にとってある意味、苦痛だった。
リング上に話を戻そう。熊さんとのコンビで極道コンビを名乗ると、俺たちはアジアタッグの代名詞的存在となった。当時、任されていた重要な「仕事」がある。まだ少なかった他団体との対抗戦、あるいは「初物」の外国人レスラーの力量を測る役目だ。番人であり切り込み隊長。プロレスに携わった人間なら理解できるだろうが、誰にでもできる役割ではない。
夢のオールスター戦の詳細を1面で伝える本紙
たとえば全日本、新日本、国際プロレスしかなかった時代に対抗戦は命懸けで臨んだものだ。東京スポーツ新聞社が主催した「夢のオールスター戦」(79年8月26日、日本武道館)で俺と熊さんは長州力、アニマル浜口組と戦った。維新軍の長州と浜口じゃない。3団体しかない時代に新日本の長州と国際の浜口が組んだ試合で、相手を務めたんだ。そう言えば分かる人は分かるだろう。後にこの2人は維新軍で名コンビとなる。オールスター戦で呼吸が合わなければ、2人のその後の大活躍もなかったと思う。
オールスター戦では大熊とのコンビで長州・浜口組と対戦。浜口にエアプレーンスピンで投げられる小鹿
極道コンビは外国人選手の「査定役」や重要な試合も任された。俺は柔道世界一のアントン・ヘーシンクがプロレスに転向した当初の相手役も務めた。後に天龍(源一郎)と阿修羅(原)が元横綱・輪島(大士)を相手に「天龍革命」と呼ばれる試合を始めたが、最初の試合で輪島と組んで龍原砲と戦ったのは熊さんだった。
プロレス転向したアントン・ヘーシンク(73年11月)
極道殺法とは何かと問われても明確な答えはない。誰が相手でも、どんな相手とでもいきなり戦っても、試合を成立させることができる。本当の意味でのプロフェッショナルとしての戦い方を持っている。そして何よりもケンカが強くなくてならない。また小鹿がホラを吹いてると叩かれそうだが、要約すればそういうことだ。
アジアタッグは通算5回取った。韓国までベルトを奪いに行ったし、オールスター戦よりも前には国際でもタイトル戦をやった。シングルとは無縁だったが、極道コンビは俺のキャリアでも最高のコンビだった。80年代に入っても俺たちの頑丈さは、上の選手からも若い連中からも一目置かれていた。しかし引退の日はあまりに突然訪れた。
復活したアジアタッグ王座に就いた極道コンビ(76年3月、韓国・ソウル)
87年7月の京都大会だったと記憶している。俺は雨の日の屋外会場のタッグマッチで相手のパイルドライバーを受け、首を痛打した。全身に痛みが走り、翌日は体が動かない。俺は馬場さんに欠場を申し出た。返ってきたのは、思いもしなかったあまりに冷酷な言葉だった。
(※文中敬称略、構成=文化部専門委員・平塚雅人)
ぐれーと・こじか 本名・小鹿信也。1942年4月28日、北海道・函館市出身。大相撲の出羽海部屋を経て63年5月に日本プロレスでデビュー。60年代末から米国でも活躍。70年代前半はカンフー・リーとしてミル・マスカラスと一大抗争を展開した。73年から全日本プロレスに参戦。故大熊元司さんとの極道コンビでアジアタッグ王座を4度獲得。88年に一度引退後、95年3月に大日本プロレスを旗揚げ。コスプレ社長の異名を取る。現在、国内現役最年長記録更新中。182センチ、97キロ。得意技・極道殺法、チョーク攻撃。
※この連載は2018年10月10日から11月9日まで全18回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を大幅に追加、新たに編集して全6回にわけてお届けする予定です。