涙の北海道脱出篇!!【グレート小鹿連載#1】
国内最年長現役記録を更新し続ける大日本プロレスのグレート小鹿会長は、2022年4月28日には傘寿(80歳)を迎え、レスラーとしてさらに未知の領域に踏み込む。大日本も2020年3月、無事に旗揚げ25周年を迎えた。もはや人智を超えた奇跡の生命体と化しつつある小鹿は「これが俺から次世代への最後のメッセージになるだろう…」との決意を込め、自ら波乱に満ちた人生を語った。題して「極道の遺言」をお届けします。(文化部専門委員・平塚雅人)
主食はジャガイモ、白米なんて毎日食えなかったし、中学校も卒業できなかった
貧しかったなんてもんじゃない。生きるためには、物心ついた時から働かなくてはならなかった。だから中学校すら卒業していない。小学校は卒業証書をかろうじてもらったけど、そんな人間は村に2人しかいなかった。
生まれは当時の北海道・亀田郡銭亀沢村字石崎(現函館市)。現在の函館・湯の川温泉を海岸沿いに30キロ上った位置にある小さな村だ。目の前は海で後ろは山。半農半漁の貧しい家だった。農業といっても3反(約2975平方メートル)ばかりの小さな土地だ。とれるものはジャガイモやカボチャ、トウモロコシしかない。むしろ漁業のほうが主で親父(繁治さん=享年59)は腕のいい漁師だった。
小学校1年時の小鹿(前列中)。やはり脚はかなりデカい(本人提供)
4男4女で俺は次男だった。長寿の家系なんだろうな。6年前に亡くなった母親(ヤスエさん)は106歳まで長生きした。次姉の笑子(えみこ)は昨年、88歳で天寿を全うした。兄の信一はおかげさまで現在でも北海道で元気に暮らしている。
小鹿は父方の姓で、親父は母親の実家へ婿に来て小鹿姓を名乗った。珍しいケースだ。母親は長女だったが、長男が商売を始めるために上京したので婿をとったんだ。戦前でも養子は珍しかったらしい。当時の函館はイワシやホッケの漁獲量が群を抜いていた。サンマはまだそれほど盛んじゃなかったと思う。たくましい親父だったが、俺が3~4歳の時に船を下りていた。視力が落ちたためだ。それで姉に手を引かれて行商になった。
当時は貴重な甘味料だったサッカリンを試験管に入れたものや、イカ釣り用の針、棒タラ(タラの干し物)を背中に担いで売る。白米なんて毎日食えない。白飯にはカボチャが半分以上交じっている。主食はジャガイモだ。その味付け用にサッカリンが重宝されていた。
俺が小学生になった時期の仕事は、ストーブや釜の煮炊きに使うまき集めだ。朝になると母親がカボチャが交じったおむすびを持たせてくれ、山を2つか3つ越えた場所にある、土地勘もない山の中を歩いた。同じ村の知人の土地だとうわさになるので、知らない土地で集めるわけだ。
山道で熊に出くわすなんて当然の時代。怖くてね。大きな鈴をチリンチリン鳴らしながら、乾燥したまきを背中いっぱいに集めては、また山を越えて自分の村に戻る。結局、熊に遭ったことはない。まさかプロレス界に入ってから熊さん(故大熊元司さん)が相棒になるとは想像もつかなかったな…。
日本プロレス時代の大熊熊五郎(のちの元司、65年3月)
そうして誰もが必死に生きていた。9歳を超えようとしたころ、小鹿家に大きな転換期が訪れた。
親父の目が見えなくなったんだ。
行商を始めたときの忘れられない悲しい思い出
緑内症というのか、親父はほとんど視力を失ってしまった。白いつえをついて姉に手を引かれて行商に出るようになった。暮らしはもちろん一向に楽にならない。親父にお前も行商に出ろと言われてね、中学校に入るころには自分でサッカリンを売るようになった。
姉たちは、中学を卒業すると、当時にぎわっていた稚内や利尻のニシン漁場へ出稼ぎに行った。夏は十勝地方の農家で働く季節労働者だ。そして毎月、姉たちから現金書留の封筒が届いた。1000円か2000円だったと思うが、書留の茶色い封筒を見るたびに俺も働かなきゃいかんと肝に銘じたもんだ。
スポーツなんてやる余裕はない。もちろんテレビもない。家では親父がラジオの相撲中継を聞いているくらいだった。俺は中学2年の時には180センチあったが体重は60キロ。台風が来ればポキリと折れるような細いアンちゃんだった。加えて今と同様に足が大きくてな…。その時で11文(27・5センチ)だ。ドタ靴しか履く靴がなかったから、運動どころじゃなかった。
行商を始めた時期、忘れられない悲しい思い出がある。運動会の日になると、隣の村の学校までアイスキャンディーを背負って売りに行った。1本5円のキャンディーを100本、カチカチに凍らせて紙を巻き、トタンの箱に入れて売る。アンパンも20個ほど積んだ。キャンディーは1本売れば1円になった。
そうすると同じ中学校の連中が、わざわざ俺をからかいに来るんだ。かごを蹴飛ばしたり揺すったり…。俺は「バカだなあ、こいつら」と妙に冷静だったから逆らいもせず黙っていた。ところがそのうち溶けたキャンディーの水分がパンに染み込んで、売り物にならなくなってしまった。
まだ9個残っていたのかな。悲しくてなあ。運動会が終わると近所の家を一軒一軒歩いては「パンいりませんか」と訪ねた。すると「全部分かっているから…」とでも言うように、数軒目の家のオジサンが黙って9個買ってくれた。うれしかったねえ。今でもあの感激は忘れない。今の俺があるのはあの時のオジサンのおかげかもしれん…。
ひょろひょろだったアンちゃんも14歳を過ぎると、自然と筋肉質の体になっていった。俺は大人に交じって漁場で働くようになる。イワシの入った箱を担いで月に2000円。15歳の6月から11月までは、初めて飯場(工事現場)に出た。檜山営林署(現在の江差町)で林道を造る仕事だ。 兄貴と2人で「立って半畳寝て1畳」の飯場で暮らし、一日中働いてはドラム缶の風呂に入って7時には寝る。週に1回、自腹で30円のかりんとうを買って食べるのが唯一の楽しみだった。
16歳になると姉たちと同じように紋別郡湧別町の缶詰工場へ出稼ぎに出た。函館から遠く離れた土地で働くのは初めてだ。だけど「男としてこのままで一生を終わりたくはない」という思いに突き動かされ、夜汽車で函館を後にした。
翌年、その思いが俺を東京へと旅立たせることになる。
「東京に行く」と告げると母は泣き続けたので…
本当は漁師になりたかった。しかし俺には致命的な欠点があった。船酔いがひどかったんだ。小学校高学年の時、初めて松前コンブを採りに行く船に乗った。年に1期だけの漁で大金になる。ところが船に乗る準備をする段階で、船特有のにおいに酔ってしまい、どうにもならなくなった。それで船乗りは諦めた。
湧別町で働いていた16歳の秋(前列中が小鹿、本人提供)
16歳10か月(1959年)で紋別郡湧別町の缶詰工場に出稼ぎに出た。毛ガニやアスパラを加工する工場で、同じ中学を出た4人で働いた。月給は5000円。少なくとも2000円は母親に仕送りしたかったから、手元には3000円しか残らない。そう考えると「やってられるか」となり、友人とストまがいのことを起こした。労働争議だね。まだ若かった。
そうして「辞める辞めない」ともめているうちに同級生の一人が遠洋漁業に出ることになったんだ。当時の大手だった日魯漁業か大洋漁業だったと思う。函館の人間にはエリート街道だ。うらやましかったが、俺は船に乗れない。ならば東京に行って一旗あげるしかない。とにかくこの土地を出なければ、という思いに背中を押されていた。
話は前後するが、便利な時代になった。今、こうして話す場所だって少し歩いてファミレスに入れば、手頃なスポーツバー(注・ドリンクバー)で飲み物は飲み放題だ。湧別町の休日で一番楽しかったのは何だか分かるかい? 日なたぼっこだよ。仲間と日なたぼっこしながらボケーッとしているのが何よりのぜいたくだった。労働はキツかったが、今思えば、平和で純真な時代だったと思う。
話を戻そう。俺は東京に出ていた母親の弟を頼りに東京へ出ることにした。おじは埼玉・川口で魚屋を営んでいた。日時を明記して「ウエノニツク。ムカエタノム。シンヤ」と電報を打ち、17歳の5月に遠軽駅から上野を目指した。しかし、その前にやらなければならない大仕事があった。母親の説得だ。
家に戻ると母親は笑顔で迎えてくれたが「東京に行く」と告げるとただひたすら泣いた。「そんな怖いところに行かないでくれ」と泣き続ける。説明しても納得はしてくれないと悟った俺は、強引に家を飛び出した。
村にはバスが数時間に一本。海岸線をダッシュで走り、バスに飛び乗った。近所に嫁いでいた長姉が泣きながら同じ海岸線を走ってくる。母親に頼まれたのだろう。しかし30メートルもしないうちに姉はヒザから崩れ落ちた。やがてバスは加速して姉の姿は点のように小さくなり、海のざわめきの中へと遠のいていった。まるで映画のワンシーンのようだった。俺は泣かなかった。とてもとても重い決意のようなものを背負わされて、函館のフェリー乗り場に着いたんだ。
青函連絡船、懐かしの摩周丸(94年8月)
青森までの青函連絡船は3等席で300円、遠軽から川口までの夜行列車の3等車の切符が2000円。ほとんど残金がないまま、酔っ払いばかりの連絡船の待合室に座った。そこで俺は、後の人生を大きく左右する人物に出会うことになる。
青函連絡船で元横綱・千代の山にスカウトされて動き出した〝運命〟
函館からの青函連絡船待合室は酔っ払いでいっぱいだった。当時の俺はまだ酒を飲んでいなかったから匂いにガマンできず、少ない所持金から100円出して2等席の待合室に移ったんだ。
するとそこで一人の紳士に声をかけられた。俺はもう181センチあったから目立ったのだろうか。「アンちゃん、東京へ行くのかい」と聞いてきて「東京は怖いところだから、あの人について行きな」と奥の席にいた大きな人を紹介してくれた。
元横綱の千代の山だった。
後に分かったんだけれど、その紳士は当時の国鉄を定年退職した北海道の元駅長さんで、松前郡福島町出身の千代の山の後援会長だった。当時、千代の山は引退して九重親方になり、出羽海部屋のスカウトをしていた。北海道で有望な若者を探して帰京するところだったんだ。
元横綱千代の山(当時の九重親方)とは運命的な出会いを果たした
雑誌で見た横綱だ――。そう分かった瞬間、俺は全身が硬直した。あの千代の山が目の前にいる。親方は緊張でガチガチになった俺を手招きした。連絡線の寝台車についていくと、果物の詰め合わせが5個も6個ある。後援会からの贈り物で、カゴに果物がてんこ盛りになった豪華なヤツだ。バナナ、メロン、りんご…いずれも当時の高級品だった。
好きなだけ食えというからバナナを24本食うと親方は笑いながら初めて声をかけてくれた。
「アンちゃん、そんなにうまいかい」
「ハイ」
その程度の会話で待合室に戻った。自分がとんでもない夢のような空間にいる実感は全くなかった。そのまま連絡線に乗って青森に到着し、上野行きの夜行列車に乗った。
俺は3等席。何故か親方に「東京に着くまでここから動くな」と命じられた。「ハイッ」と答えるしかない。親方はグリーン車へ移るや、弁当を10個も抱えて戻ってきて「アンちゃん、これ食いな」と手渡してくれた。3等車の乗客は「千代の山だ!」と大騒ぎだよ。10個も食えるわけがないから、1個だけ残してその人たちにおすそ分けした。味? いやあ、おいしくはなかったなあ。白米と鶏と野菜の煮付けが入っているだけ。当時の駅弁なんてそんなもんさ。
席に戻った俺は、言われた通り3等車から一歩も動かなかった。窓の景色? 夜になったらそんなもん見えるかい。おまけにトンネル越えたら顔はすすで真っ黒だ。所持品は風呂敷に包んだシャツ1枚とパンツ2枚だけ。絵の描けない山下清(注・それはもはや山下清ではない)のようなもんだ。かわいそうに思って親方は声をかけてくれたんだろうな。
朝7時、列車は上野駅に着いた。俺は相撲取りになるつもりなんてこれっぽっちもなかった。ところが親方を迎えにきた兄弟子数人が「おいアンちゃん、一緒に車に乗れ」と言う。何が何だか分からないまま、数台に分かれ、生まれて初めてタクシーに乗った。もしあの時、声をかけてきたのが極道だったら、俺は間違いなく極道になっていただろう。まさかプロレス入りしてから別の意味で極道になるとは思わなんだが…。
この時点で俺は大変なことを忘れていた。電報を受けたおじは一日中、上野駅で俺を待ち続けていたらしい。当時は携帯電話なんてないから連絡もできなかった。結局朝から午後11時の列車まで待ち、川口に帰ったらしい。後日、こっぴどく怒られたよ。
そうしてタクシーは両国の出羽海部屋に到着した。想像もしていなかった展開で俺の相撲人生が始まった。(つづく、※文中敬称略)
ぐれーと・こじか 本名・小鹿信也。1942年4月28日、北海道・函館市出身。大相撲の出羽海部屋を経て63年5月に日本プロレスでデビュー。60年代末から米国でも活躍。70年代前半はカンフー・リーとしてミル・マスカラスと一大抗争を展開した。73年から全日本プロレスに参戦。故大熊元司さんとの極道コンビでアジアタッグ王座を4度獲得。88年に一度引退後、95年3月に大日本プロレスを旗揚げ。コスプレ社長の異名を取る。現在、国内現役最年長記録更新中。182センチ、97キロ。得意技・極道殺法、チョーク攻撃。
※この連載は2018年10月10日から11月9日まで全18回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を大幅に追加、新たに編集して全6回にわけてお届けする予定です。