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涙の力道山先生篇!!【グレート小鹿連載#3】

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すんなり入門決定もいざ訪れると力道山先生は「お前、誰だ!」

 アポなしでリキ・スポーツパレス(東京・渋谷の常設会場)を訪れると力道山先生はおらず、営業の人が「来週に試合があるからその時いらっしゃい」と10月下旬に日時を決めてくれた。約束の日に改めて訪れ、先生のお顔を初めて生で拝見した。緊張なんてもんじゃなかった。後光すら差していた。いや、ホンモノの神様と言うべきか――。

「おおそうか。出羽さんのところにいたのか」と先生は笑顔を見せてくれたが、俺はガチガチになったままだ。「上半身裸になれ」と命じられ、言うがままにすると「体は大きいな。よし入門だ!」とあっさり認めていただいた。11月24日に入門することが決まった。

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後光すら差していた力道山から直接入門を許されたものの…

 夢のようだった。あまりにすんなり決まったんで現実味はひとつもわかない。だが今いる魚屋は辞めなくてはならない。ギリギリまで黙っていればよかったのだが、内緒にしているのは後ろめたかった。かといって同僚たちに面と向かって「プロレスラーになる」と言うのもこっ恥ずかしい。その夜、俺は「今度プロレスラーになることになりました。つきましてはお店を辞めさせていただきたく存じます」と紙に書いて枕元に置いて寝た。

 起きるまでに同僚が読んでくれるだろうという狙いだった。今、思えばこれが最初の「遺書」だったかもしれんな…。案の定、朝になると周囲は「大変だ、信ちゃんが辞めるって!」と大騒ぎになっていた。しかし1か月先まで居候はできない。俺は、皆が事情を把握した後、親方に頭を下げて「力道山先生の弟子になりました」と報告すると、プロレス好きだった親方は「頑張れよ」と声をかけてくれた。おばあちゃんからは貯金していた8000円をもらって魚屋を出た。

 とりあえず入門まで住むところを探さなければならない。風呂敷にはシャツ3枚とパンツ1枚。それが全財産だ。行きつけのトリスバーのママさんに事情を話すと、天井の高さまで跳び上がって「わ、私はダメよ!」って叫んだ。口説いていると勘違いされたんだ。30代半ばで美人のママだったが、その時は色恋ざたどころじゃないさ。すると店にいた客に「あんたんちはどう?」と声をかけてくれた。

 偶然だが立浪部屋出身の元力士で役者を目指していた人らしい。その人は「オウ、いいよ」と快諾してくれ、武蔵境の3畳間に転がり込んだ。元力士が3畳に2人だ。俺は敷布団、彼は掛け布団で寝た。今、考えてもよく受け入れてくれたと思う。

 わずかな礼金を払うと残金でチキンラーメン2箱を買った。全部で48個だ。入門までこれで食いつなぐしかない。当時の武蔵境は畑が多くてね。ネギやキャべツをこっそりいただいて、ラーメンに入れて食いつないだんだが、21歳の俺に足りるわけがない。見る見る間に体はやせ落ち、85キロあった体重は70キロまで落ちた。そうしてようやく入門の日がやってきた。

練習する小鹿雷三(64年6月)

練習する小鹿雷三(64年6月)

 まるで討ち入りの志士のように決死の覚悟を固め、風呂敷包みひとつを手にリキ・スポーツパレスを訪れた俺に、先生は予想外の言葉をかけてきた。

「お前、誰だ! 入門など許した覚えはない!」

 俺はぼう然となり、全身を硬直させて直立不動で立ちつくすしかなかった。

地獄だったが…先輩たちの「練習台」で強くなっていった

 いったい何がどうなっているんだ。「弟子にしてやる」と言ってくれた力道山先生は態度を180度変えて怒っている。途方に暮れる俺の顔をじっと見つめた先生は「あっ」という表情でようやく思い出してくれた。

 15キロもやせていたから体つきも人相もすっかり変わってしまっていたんだ。一転「何だ、お前だったか」と笑いながら入門を認めてくれた。1962年11月24日、俺は晴れて日本プロレスの一員となった。結果的には俺が最後の先生の弟子になってしまったんだが…。

力道山(左)の体を気遣う田中米太郎(62年6月)

力道山(左)の体を気遣う田中米太郎(62年6月)

 先生は田中米太郎さん(ジャイアント馬場のデビュー戦の相手)を呼んで「おい、こいつを今日から合宿所に入れてやれ」と俺を預けてくれた。当時の合宿所は東京・赤坂の一軒家で最寄り駅は青山一丁目。1階が大広間と食堂、2階が選手の部屋で8部屋に15人くらいが住んでいた。道場は渋谷のリキ・スポーツパレスだ。片道15円で地下鉄に乗り、朝10時から午後2時までが練習。デビューするまで給料はないから、電車賃も自腹だ。3食には困らなかったけれど、生活費がどうにもならないから毎日先輩に100円借りては日々を過ごしていた。

 練習はひと言で言えば「真剣勝負」だ。今のように丁寧に受け身から教わるなんてとんでもない。アントニオ猪木さん、大木金太郎さん、上田馬之助さん…そうそうたる先輩たちがいた。「リングに上がれ」と言われて四つん這いになる。そうすると先輩たちが後ろから首や足、関節を決めるんだ。スパーリングにすらなっていない。単なる練習台だ。俺は「アイタタッ!」って悲鳴を上げてマットを叩くしかなかった。オーバーに言えば、猪木さんには1秒間に3回も決められて声を上げたよ。その地獄が2時間は続いた。大体この時点で辞める人間が多かった。

沖識名(中央奥)が見守る中スクワットする小鹿(中央)、大熊熊五郎(右)ら(64年6月)

沖識名(中央奥)が見守る中、スクワットする小鹿(中央)、大熊熊五郎(右)ら(64年6月)

 あとはひたすらスクワット。1日1000回が最低ラインだった。レフェリーの沖識名さんが教官役。先輩に関節を決められたらスクワット、あとは見よう見まねでバーベルだ。とにかく自分から動かなければ誰も何も教えてくれないんだ。スパーリングもひたすら耐え抜くしかない。1日4時間の練習が終われば、その後はフリー。大相撲のように兄弟子の世話もなかった。食事の内容は相撲時代のほうがはるかに良かったけどね。

 不思議なことに毎日毎日先輩に痛めつけられると、逃げ方を覚えるようになるんだ。そうして少しずつ耐えられるようになっていく。悲鳴を上げる回数も参ったする回数もだんだん減り、体も頑丈になっていく。自分が強くなっていく実感もあった。62年が明けて春になると巡業に同行するようになった。

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1964年に大相撲から転向した木村政雄(後のラッシャー木村)とちゃんこを囲む小鹿

 その時期だ。ほぼ毎日のように俺の身を案じた母親から「スグカエレ」と電報が届いていた。それを知った先生は「親不孝はするな。一度函館に帰ってお袋さんを説得しろ。ダメなら戻ってくるな」と命じられた。

 星野勘太郎さんにカバン、上田さんに500円を借りて函館に戻った。5時間説得したが母親は「お前がプロレスラーになんてなれるわけがない」と泣き続ける。それでもなんとか説得して帰京した。それから電報は一度も来なくなったから、まあ納得してくれたんだろうな。

 入門してからちょうど半年、ついにデビュー戦の機会が巡ってきた。63年5月5日、奈良市あやめ池公園の野外特設リング、先輩のマシオ駒さんとの10分1本勝負だ。長いこと「小鹿のデビュー戦日時は不明」とされていたが、5月5日で間違いない。

「不明」とされていたのは、ある深い理由があったからだ。

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道場ではひたすら先輩の練習相手を務めた。ジャイアント馬場に腕と首を決められる

デビュー戦は4分強で大の字…ギャラはわずか1800円

 当時の新弟子は、コーチ役の沖識名さんが力道山先生に「そろそろどうですか?」と進言してデビューの運びとなっていた。俺は違った。入門から半年後の5月、兄弟子から「先生に試合に出させてくださいとお願いしてみろ」と言われ、自分からデビューしたいと直訴したんだ。先生は一瞬、ギラリと鋭い目になり「できるのか?」と聞いてきた。体を射抜くような視線だったが「ハイ!」と即答した。

駒角太郎(後のマシオ駒)に蹴りを見舞う小鹿雷三(67年7月)

駒角太郎(のちのマシオ駒)に蹴りを見舞う小鹿雷三(67年7月)

 1963年5月5日、奈良市あやめ池公園特設リング大会でマシオ駒さんを相手にデビュー戦(10分1本勝負)を迎えた。ところが通常の大会ではなかった。地方のある有力な実業家の息子の結婚披露宴の出し物として開催された、今でいう「イベントプロレス」のようなもので、試合も2~3試合のみ。公式結果はもちろんない。当時の日本プロレスにはよくあることだった。

 披露宴の会場が公園というのもスケールがデカい。無料だから披露宴とは関係のない観客が2万人を超えていた。いかにも昭和30年代だろ? まあ、どういう方のお祝いだったかは、時代を考慮して察してほしい。ただしデビューした日付は俺自身がハッキリと記憶している。これからはデビュー戦を「63年5月5日」と明記してくれて構わない。これも大事な「遺言」のひとつかもしれない。

星野勘太郎(手前右)ら先輩のスパーを見つめる小鹿、右からアントニオ猪木、遠藤幸吉、小鹿、豊登、上田裕司(後の馬之助、63年12月)

星野勘太郎(手前右)ら先輩のスパーを見つめる小鹿。右からアントニオ猪木、遠藤幸吉、小鹿、豊登、上田裕司(のちの馬之助、63年12月)

 試合内容は覚えていない。駒さんに簡単に手玉に取られ、何もできないまま4分強で大の字になってしまい、息が上がって3カウントを奪われた。ギャラは会社に1割引かれて手取りわずか1800円。ようやくプロレスラーになったと思ったが、やはり現実は甘くはなかった。

 巡業に帯同する日々が始まった。当時は必ず本試合以外にバトルロイヤルがあり、新人は皆そこで経験を積む。1大会2試合になるから年間で250試合を超えた。デビューしても兄弟子たちの練習役は続き、技なんか誰も教えてくれないままだ。ならどうすればいいのか。俺なりに考えた。

 キビキビと動いて大声を出す。これしかない。同年代の若手は10人以上。バカだと笑われようが目立つしかなかった。試合では、一番後方席のお客さんにも伝わるよう、相手に「どうだ!」「テメー、この野郎!」「立ちやがれ!」。つい興奮して先輩を怒鳴って控室でコテンパンにのされたこともある。先輩のお世話の合間には、ドン・ジャーディン(オールド・スクールの元祖)やバディ・オースチン(元WWA王者)ら外国人選手の世話係も自主的にやった。荷物を持ったり、試合や練習をじっくり見て動きを観察したんだ。

ドン・ジャーデン、左はサニー・マイヤース(63年9月)

ドン・ジャーディン、左はサニー・マイヤース(63年9月)

 悪く言えば技術を「盗む」。真剣な姿勢を見せると人間ってのは不思議なもんで、英語が分からない俺に細かい技の入り方を教えてくれた。俺はそれを大事に守って基本技に取り入れる。今の世代の人間に足りないのは、そういうガムシャラなどん欲な姿勢だと思う。

力道山を痛めつけるバディ・オースチン(62年4月)

力道山を痛めつけるバディ・オースチン(62年4月)

 バトルロイヤルで経験を積んでようやく先が見えかけた1963年12月15日、日本プロレス界、いや日本全国を激震させる大事件が起きた。

 力道山先生が暴漢に刺されて命を失ったんだ。

コワルスキーとの決戦前に大女優が力道山先生に花束を…

 事件は1963年12月8日夜に起きた。力道山先生は赤坂のクラブ「ニューラテンクォーター」で客の男と口論になり、ナイフで刺された。7日の浜松大会を終えて帰る途中、俺は松岡巌鉄さんと川崎市のスポンサーに招待されて8日の深夜まで飲んでいた。最終電車で合宿所(力道山邸の隣)へ戻ると、付近の道路は完全封鎖されていて大騒ぎになっていた。

力道山刺さるの報が流れたリキアパート、全景(63年12月)

力道山刺さるの報が流れたリキアパート全景(63年12月)

 パトカーからは「報復のため、四谷でプロレスラー2人が日本刀を購入したとの情報あり」なんて物騒な無線が聞こえてきた。実際に俺たち若い衆の間には「仕返ししよう」という不穏な空気が流れていた。

 先生は赤坂の山王病院に入院し、当初は軽傷と伝えられていた。情報が少ない時代だ。合宿所で待機しているしかすべはない。そして15日午前、林牛之助(後のミスター林レフェリー)が大広間の電話を取ると絞り出すような声で「親父が死んだって」と言ったきり、絶句してしまった。

力道山死去の報に病院へ駆けつける猪木(63年12月、東京・赤坂の山王病院)

力道山死去の報を受け、病院へ駆けつけるアントニオ猪木(63年12月)

 頭の中が真っ白になった。真冬の函館で頭から冷水をかけられても、あれほど凍りつきはしないだろう。先生が亡くなった日のことは、もう何度もあちこちで語り尽くしている。だからこの場では、俺が弟子だったわずか1年2か月という時間の中で、一番印象的だった光景について話したい。

 63年5月17日、東京体育館、第5回ワールドリーグ戦最終戦。先生はメインで当時トップ外国人選手だったキラー・コワルスキーとの優勝決定戦を控えていた。先生の控室は一番奥。30メートル手前の扉から立ち入り禁止になっていて、俺は扉の前で門番を務めていた。通路まで胃が痛くなるほどの緊張感が張りつめ、先生が神経を集中させている光景が目に浮かんだ。本当に誰も近寄れない空気に満ちていた。

力道山とコワルスキーの第5回ワールドリーグ戦決勝(63年5月)

力道山とコワルスキーの第5回ワールドリーグ戦決勝(63年5月)

 すると扉の前に豪華な和服を着た、ものすごい美人が豪華な花束を持って現れたんだ。一瞬で俺は「あっ、あの大女優だ」と分かったのだが、とっさに名前が出てこない。彼女は中に入れないことを熟知しているかのように、俺に豪華な花束を預けた。「渡していただければ誰か分かります」と言うや、バラの花のような香りを残して、さっそうと消えた。

 こんな場合はどうすればいいんだ。花束を抱えた俺は30メートルの通路をゆっくり歩いた。年に一度の大一番。ゴング直前に控室の扉を叩いたら絶対に殺されるだろう。しかし、花束を放っておくわけにもいかない。コンコンと扉を叩くと、わずかな間を置いて「…入れ」という先生の低い声が聞こえた。扉を開けると先生の背中が見えた。試合に向けて全身に怒りをため込んでいるかのようだった。

「お渡しすれば分かりますとのことでした」。震えながら花束を渡す俺に先生は「おお、そうか」とニッコリほほ笑んでくれた。あっさり意味が通じたんで俺はホッとした。先生のあんな笑顔は最初で最後だった。贈り主の美女は誰だったか、いまだに思い出せないということにしておこうか。試合は先生が快勝し、ワールドリーグ戦史上最多の5連覇を達成した。場内の大歓声の中、俺は皆とは少し違う感慨を持って、リング上の先生の姿を仰いでいた。

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力道山刺されるのニュースは日本全国に衝撃を与えた(63年12月10日付本紙1面)

 話を戻そう。先生が亡くなった直後「日本のプロレスは終わった」という声が圧倒的だった。しかし、東京スポーツを筆頭に当時は大都市ごとに発行されていた夕刊紙、朝刊スポーツ紙もプロレスを熱心に報じてくれた。観客の声援もより熱くなった。力道山という英雄が亡くなった後だからこそ応援しようという心意気だ。あのパワーは「侍」の精神に満ちていたと今でも思う。

力道山密葬、右から百田敬子未亡人、長男・義浩、二男・光雄(63年12月、西大崎の葬儀場)

力道山の密葬、右から百田敬子さん、長男の義浩さん、次男の光雄さん(63年12月、西大崎の葬儀場)

 やがてジャイアント馬場さんが米国遠征から帰国して、プロレスは第2期黄金時代に突入する。(※文中敬称略、構成=文化部専門委員・平塚雅人)

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ぐれーと・こじか 本名・小鹿信也。1942年4月28日、北海道・函館市出身。大相撲の出羽海部屋を経て63年5月に日本プロレスでデビュー。60年代末から米国でも活躍。70年代前半はカンフー・リーとしてミル・マスカラスと一大抗争を展開した。73年から全日本プロレスに参戦。故大熊元司さんとの極道コンビでアジアタッグ王座を4度獲得。88年に一度引退後、95年3月に大日本プロレスを旗揚げ。コスプレ社長の異名を取る。現在、国内現役最年長記録更新中。182センチ、97キロ。得意技・極道殺法、チョーク攻撃。

※この連載は2018年10月10日から11月9日まで全18回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を大幅に追加、新たに編集して全6回にわけてお届けする予定です。

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