涙の相撲部屋篇!!【グレート小鹿連載#2】
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水をガブ飲みして新弟子検査になんとか合格したが…
何がなんだか分からないまま出羽海部屋に着いた俺は、流れでそのまま弟子入りすることになった。九重親方(元横綱千代の山)は部屋に入るなり「おい竹美山、このアンちゃんに泥着(浴衣)を分けてくれ」と端正な顔立ちの兄弟子に声をかけた。その人は腹ばいになってマンガを読んでいた。
後の横綱北の富士さん(現解説者)だった。
横綱・北の富士(70年1月)
当時はまだ三段目で竹美山の四股名だった。この人も同じ北海道・美幌町(現在の旭川市)出身だ。俺は1枚の浴衣をもらい1959年春、九重親方の内弟子として力士への道を踏み出した。後先など考える余裕なんて全然なかった。
当時は横綱栃錦と横綱若乃花(初代)の「栃若時代」だ。国技としての人気はもちろん、日本全国が取組の結果に一喜一憂していた。俺が入門したころの出羽海部屋は100人以上の大所帯。部屋付きの親方だけでも10人以上だ。後年にタレントとしても活躍した後の田子ノ浦親方の出羽錦(元関脇)、小城ノ花(先代。元関脇=後の高崎親方)…関取は確か8人はいたんじゃないかな。後に横綱になる佐田の山さんが新十両で9勝6敗で勝ち越して、部屋が沸いていたのを思い出す。
田子ノ浦親方、森光子(右)、沢田雅美(左)が出演したグランド劇場「おふくろの味」(日本テレビ系、70年)
朝4時に起きて稽古場に出る。そのうち関取衆が出てくると、稽古場に入りきらないほど力士であふれかえってね。俺たち若い衆7~8人は近くの三保ヶ関部屋まで稽古に行かなければならなかった。キツかったけど飯だけは腹一杯食べられた。とはいっても、俺たちの時間になるとちゃんこは汁だけ。たくあん2~3切れをおかずに、どんぶりで3杯は食っていた。
娯楽なんてない。兄弟子がちゃんこを食べながら白黒のテレビを見ているのを、給仕しながら眺めるくらいだった。フランク永井や松尾和子の時代だ。俺は松尾和子が大好きでね。当時はやっていた「グッド・ナイト」という歌が流れると、ポカンとしながらテレビを見たもんだ。そうすると兄弟子が「そうかい、アンちゃんは松尾和子がタイプかい」とからかって笑うんだ。
ムード歌謡の女王と呼ばれた松尾和子(66年8月)
あ、忘れてた。上野駅で一日中待たせていた川口の魚屋のおじ(母親の弟)の話だ。部屋に入って1週間、身辺がようやく落ち着いたんで、兄弟子と一緒にあいさつに行った。九重親方が「おじさんが心配してるだろう」と気を使ってくれたんだ。おじさん、目を真ん丸くしてなあ。そりゃそうだ。最後に会った時はまだ坊主だった俺が、180センチ超えて浴衣着てゲタ履いて店先に立ったんだから。「お前、何だ。どうした」って。でも相撲好きだったから説明すると喜んでくれてさ、ビールと刺し身をふるまってくれたよ。
6月になり名古屋場所で新弟子検査を受けることになった。もうこの時は182センチあったが体重が規定まで3キロ以上も足りない。兄弟子に一升瓶で水をガブガブ飲まされて、秤(はかり)に乗る時は「ドーンと飛び乗れ」と。当時の秤は古いから、針が振り切るとなかなか戻らないんだ。そこでニードロップかますぐらい、飛び上がって秤に乗ってね。針が動いているうちにサッと下りる。「ハイ、合格」と言われると、トイレへ急行して水をゲーゲー戻した。
17歳の新弟子当時。まだまだ線が細かった(本人提供)
そして名古屋場所で初土俵を踏んだ。四股名は本名の小鹿。期待に胸をふくらませて土俵に上がったが、最終的に相撲界にはなじめなかった。
とても陰湿ないじめに遭っていたからだ。
先輩力士たちの「眉毛抜き」いじめは今でも許せない!
どのスポーツ界にもいるが、自分の将来に限界を感じた人間は、いじめに走る。俺は相撲の才能はなかったけど「人を見る目」だけは確かだった。「この人はいい人なのか、悪い人なのか」という判断が、本能的かつ即座に下せたんだ。だから初対面の九重親方に黙ってついていったと思うし、その判断力は後に波乱ばかりだったプロレス人生でも役立つことになる。
春日野部屋の兄弟子(左)と地方場所の宿舎で(本人提供)
元十両で、番付がかなり下まで落ちていた30代の兄弟子がいた。俺はこの男に目をつけられてしまった。殴る蹴るなんて日常茶飯事だ。部屋で泥棒騒動が起きた時は若い衆が毎日1人ずつ半殺しにされ「小鹿、明日はお前の番だぞ」と脅迫された。結局、犯人が分かって俺は半殺しにはされなかったが、親方の目を盗み、後輩をいたぶるという姿勢がどうにも許せなかった。
一番精神的に参ったいじめがある。大部屋だと親方にばれるから、床山さんの部屋に呼び出される。5~6人の兄弟子に手足を押さえつけられて、眉毛を一本ずつピンセットで抜かれた。痛いなんてもんじゃない。白い和紙の上に眉毛が50~60本くらいになると「今日はこれぐらいで勘弁してやろう」とようやく解放される。地獄だった。
俺は北海道で貧乏のドン底を体験していたから、どんな理不尽なことにも耐えられたが、このいじめだけは今でも許せない。人前では絶対泣いたことのなかった俺でも、屋上へ洗濯物を取りにいくふりをしてシーツに頭をくるんで泣いた。泣きに泣いた。このままじゃ故郷のおふくろに合わせる顔がない。そう考えると涙が止まらなかった。
日本プロレス入り当時の安達勝治(67年5月)
偶然だが、部屋には後にプロレス入りする安達(勝治、ミスター・ヒト=故人)がいた。俺は「兄弟子をボコボコにして辞める。悪いけど手足を押さえる役をやってほしい」と頼んだ。彼は冷静で「今の体力なら逆に負かされますよ」と言う。そこで俺はカーッとなって「分かった。プロレスラーになってあの男を殴りに来る」と口走った。これは本当の思い付きで出た言葉だった。実際にプロレス入りするまではあと数年を要することになる。
だけどプロレスは大好きだった。若い衆の間では「小鹿は大のプロレス好きだ」と言われていた。兄弟子がテレビでプロレス中継を見ると、俺も一番後ろから食い入るように画面を見ていた。
外国人を空手チョップでなぎ倒す力道山先生の姿は衝撃的だった。
リッキー・ワルドーに空手チョップを振るう力道山の姿がまぶしく見えた(左は豊登)
頭を落雷で打たれたような興奮に取りつかれた俺は、プロレスの興行があると日大講堂へ通うようになった。もう時効だから告白するが、金がないから2階まで上ってガラス窓を破って会場に入っていたんだ。だから見るのは一番上の2階席。だが遠くからでも異常なまでの熱気と興奮は伝わった。
リッキー・ワルドーやルーター・レンジらの屈強な黒人レスラーに立ち向かう力道山先生の姿は、情熱の塊のようだった。観衆は我を忘れて絶叫している。何なんだ、この世界は――。
北海道から上京して2年、初めて俺は「自由」を感じていた。
魚屋で働いて4か月…力道山先生の姿を見て確信した
結局、相撲は3年続けて最高位は三段目。身長は183センチまで伸びたが、体重は85キロが精一杯だった。親方が3年間で3人も代わる騒ぎもあって、1962年5月に辞めた。最終番付は序二段だった。
相撲の世界の裏側に嫌気が差してプロレスの魅力に取りつかれたものの、本気でプロレスラーになれるとは思わなかったな。それよりも商売で金を稼ぐほうに魅力を感じていたんだ。
川口で魚屋を営んでいるおじを頼りに就職口を探してもらうと、東京・小金井市の「魚七」という大きな魚屋を紹介してくれた。小金井カントリー倶楽部や宴会場に刺し身や仕出し弁当を出しており、中央線沿線では名店と呼ばれていた。
魚屋で修業を始めた20歳の春。横顔にはそろそろグレート小鹿の雰囲気が漂う(本人提供)
店の親方夫妻とそのおばあちゃんが経営しており、他の店員4人と武蔵境北口の家に住み込んで、でっち奉公の生活が始まった。始発で武蔵境から武蔵小金井の店まで通ったんだが、北海道出身者特有の悩みというか「さあ、いらっしゃいませ!」とか「ハイッ、おつり100円です!」とか景気のいい掛け声が出せなかった。
それでも毎日アジやサバをさばいているうちに、商売の面白みが分かってきた。当時は天井からカゴをつるしてお金を出し入れしたんだが、夕方には買い物客で店先があふれんばかりの人出だ。最後の一匹まで売り切ると気持ちよくてね。週6日、朝から晩まで働いた。
給料は月6000円で週払いで1000円ずつもらっていた。残り2000円は親方が貯金してくれた。日曜日は昼まで寝て、1000円持って武蔵境の北口商店街をブラブラする。テレビで藤田まことの「てなもんや三度笠」を眺めながら50円のラーメンをすすり、焼き鳥屋に行って1本10円のもつ焼きを3本、七味唐辛子を山ほどかけて、焼酎をゆっくり飲む。最後は当時流行していたトリスバーだ。トリスのハイボールが40円だった。それを10杯は飲んで下宿先に帰る。酒は強くなっていたが、まあかわいいもんだったね。
だが勤めて4か月ほどになると「このままじゃひと旗揚げるなんて無理だ」と気がついた。魚屋のパートの人に競輪選手の奥さんがいて、一流選手になればとんでもない額が稼げると聞いて心が揺れ動いたこともあったけれど、競輪選手の養成学校に入るには50万円必要だという。そんな大金、誰も貸してくれない。魚屋の運搬用の大きなタイヤの自転車で練習したりしたけど、やがて諦めた。毎月2000円ずつしか貯金できない俺にとって、50万円なんて夢のような大金だった。
競輪選手は無理だ。ならば何をすればもうかるのか。そう考えながらラーメン屋のテレビを眺めていたら、金曜8時のプロレス中継が目に入ってきた。
キングピッチを破り、世界フライ級王者になったファイティング原田(62年10月)
そうだ、プロレスがあった。白黒の画面の中では力道山先生が、鬼のような形相で屈強な外国人レスラーに空手チョップを叩き込んでいる。観客は熱狂の渦だ。プロレスラーになれば必ず金が稼げる――。
勝手にそう確信した俺は、力道山先生に直訴するため、魚屋を仮病で休み、渋谷区のリキ・スポーツパレス(当時の常設会場)をアポなしで訪れた。62年10月、ボクシングのファイティング原田がポーン・キングピッチ(タイ)をKOして世界フライ級チャンピオンとなり、日本中を熱狂させていた時期だった。(つづく、※文中敬称略)
リキ・スポーツパレス(61年8月)
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ぐれーと・こじか 本名・小鹿信也。1942年4月28日、北海道・函館市出身。大相撲の出羽海部屋を経て63年5月に日本プロレスでデビュー。60年代末から米国でも活躍。70年代前半はカンフー・リーとしてミル・マスカラスと一大抗争を展開した。73年から全日本プロレスに参戦。故大熊元司さんとの極道コンビでアジアタッグ王座を4度獲得。88年に一度引退後、95年3月に大日本プロレスを旗揚げ。コスプレ社長の異名を取る。現在、国内現役最年長記録更新中。182センチ、97キロ。得意技・極道殺法、チョーク攻撃。
※この連載は2018年10月10日から11月9日まで全18回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を大幅に追加、新たに編集して全6回にわけてお届けする予定です。