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プロ野球には故意死球がある。売られたケンカ買わなきゃ男じゃない!【駒田徳広 連載#16】

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デーブの死球骨折で後戻りできなくなったヤクルトの遺恨

 1992年、93年のセ・リーグを連覇したのはヤクルトだった。あのころの巨人は野村監督と捕手の古田に随分、痛い目にあわされたものだ。

 実際、肉体的にも両チームの対戦ではデッドボールが多く、試合がよく荒れた。ボクも一度、古田に対しては本気で頭にきたことがある。

ヤクルトのリーグ優勝祝勝会、左からハウエル、古田、広沢、野村監督、池山、岡林、荒木(92年10月、大阪)

 92年9月1日の神宮。5回表、走者を二塁に置いた場面で打席にボクを迎えたヤクルトバッテリーは、ここでタイムを取った。ベンチからは投手コーチが出てきて何やら相談が始まった。

 一塁が空いている場面だったから、おそらく「歩かせてもいいから厳しいところをついていけ」という相談だったのだろう。だが、その直後の初球が右足のふくらはぎを直撃するデッドボールだったからたまらない。
「オマエら何のために集まったんだよ!」。当然のようにボクはブチ切れた。「歩かせるのなら1球で終わらせよう」とぶつけてきたのにもハラが立ったし、その直前の4回裏に槙原がハウエルにぶつけていた。あれだけ分かりやすい故意死球もそうはなかったからだ。

 だが、そんなボクの怒りに古田が油を注いだ。悪びれるどころか「はあ? 何、言っているんですか?」とこちらの神経を逆なでするような態度で言い返してきたのだ。まるで「なんだコイツ」と言わんばかり。あの時ばかりはホントに切れたし、しばらくは怒りが収まらなかったものだ。


 本格的に両チームの対戦が遺恨戦となったのは翌93年のことだ。発端は5月7日の神宮。ここで吉村が右腕に死球を受けて2試合を欠場すると、5月27日のやはり神宮では、初回に原さんが荒木から腰に当てられて途中退場。さらに7回にはデーブ(大久保)も高津から左腕にぶつけられグラウンドに倒れたのだ。

左手に死球を受け倒れ込んだ大久保

「いい加減にしろ! このヤロー!」。さすがに巨人ベンチは騒然となり、ボクや元木がエキサイトした。打撃コーチの中畑さんは「チクショー!」と叫び、デーブの元に駆け寄った。「左手首尺骨骨折」という最悪の結果。医者からは今季絶望の診断が下った。

元木大介(91年)

 さすがにここまでやられたら黙ってはいられない。しかも野村監督の「大久保が当たったぐらいでガタガタ言うな」というコメントが報じられたことでボクたちも引き下がれなくなった。そこで次のヤクルト戦となる6月8日の富山遠征で「仕返し」をすることになるのだった。

 ただ、ボクの感覚で言えば、そのやり方がまずかったように思う。あの時、もっと早く「報復」の決断をしていれば、両チームの遺恨を長引かせることにはならなかったのではないだろうか…。

報復を先延ばしにしたのが裏目に…

 1993年6月8日、富山で行われた巨人―ヤクルト戦。そこであの事件が起きた。

本塁に滑り込む古田とタッチにいく吉原(93年6月、富山)

 1回表、先発の宮本が古田の右腰にぶつけ、いきなり険悪な空気が立ち込めると、その古田が本塁突入の際に捕手の吉原に激しいタックル。すると、今度はブロックした吉原がミットで古田の頭をポカリと叩いたのだ。

 これが合図となった。顔を真っ赤にしたハウエルが吉原に飛び掛かると、すかさず宮本が割って入り、ベンチから飛び出してきた打撃コーチの中畑さんがハウエルをヘッドロックにとらえる――。試合開始早々、両軍ベンチを空っぽにしての大乱闘。結局、吉原とハウエルが退場となってその場は収まるのだが、当時のボクはここではあまり大暴れをしていない。というのも、ヤクルトに申し訳ない気持ちの方が強かったからだ。

ハウエルがエキサイトして乱闘が始まった(93年6月、富山)

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