一度は横浜に決めた心がグラグラと揺れたわけ【下柳剛連載#20】
オレへの条件提示より愛犬ラガーへのアピール合戦に
オレのFA宣言に端を発した阪神と横浜(現DeNA)の2球団による争奪戦は、予想外の展開になった。両球団が熱を上げたのはオレへの条件提示より、愛犬であるラブラドルレトリバーのラガーをどれだけ大事に考えているかのアピール。横浜が「キャンプ地の沖縄にラガー用の小屋を建てます」と言ったかと思えば、阪神も負けじと「それならウチは、ラガーの面倒を見る人の費用を持ちましょう」って具合に。
監督を退任されてシニアディレクター(SD)の職に就いていた星野仙一さんには「独身のシモにとって、犬は家族同然や」って言っていただいた。オフになってラガーを連れて甲子園球場を訪ねたときは、グラウンド整備を担っている阪神園芸の方に「こらーっ!」って怒られたけど、オレとラガーだと分かると、犬用に水まで用意してもらった。でも、気持ちは揺らがなかった。
出した結論は「横浜でお世話になる」。決め手はやはり、ラガーの存在だ。見知らぬ土地より、勝手も分かっていて友達も多い関東で…という決意は固かった。相棒との新たな住まいに、川崎市の溝口にあるマンションを選んで、代理人の上杉昌隆弁護士には横浜移籍を前提としたメディア向けのコメントまで用意してもらっていた。
実を言うと提示された条件も横浜の方が金額が高くてね。横浜から山下大輔監督(当時)同席の交渉を持ちかけられたときに断ったのも「どうせお世話になるんだから、余計なセレモニーまでしなくてもいいだろう」という考えからだ。
心を決めて、1年間ラガーの面倒を見ていただいた人に「横浜に移籍することにしました」と決意を伝えた。そして返ってきた答えが「ラガーのことが心配なんやろ? あと1年預かってやるから阪神に残れ。その方が勝てるやろ」。そう言われてオレの決意はグラグラと揺れた。
この2003年は、阪神がぶっちぎりでリーグ優勝したのに対して横浜は首位から42・5ゲーム差で2年連続の最下位。どっちを選んでも野球をすることに変わりないけど、やるからには勝ちたいし、優勝を狙えるチームでやりがいのある仕事をしたい。そう思った瞬間に選択肢から「横浜」の名前が消えた。
結論から言うと、自分の出した答えに間違いはなかった。35歳を過ぎても高いモチベーションを持って野球に打ち込めたのは同い年の金本知憲と矢野輝弘(現燿大)と切磋琢磨できたからだし、05年に最多勝のタイトルを取れたのもJFKという鉄壁のリリーフ陣に恵まれたおかげ。熱心に誘ってもらった横浜には申し訳なかったけど、今でもいい決断だったと思っている。
球界再編問題のさなか、二軍行きを宣告されて…
人生には山もあれば谷もある。いいことばかり続くこともなければ、悪いことだらけということもない。さらに言うと、「流れ」みたいなものもある。災い転じて福となっちゃうような。2004年のオレが、まさにそれだった。
この年の初登板は開幕3戦目に敵地・東京ドームで行われた巨人戦。ここで幸先良く初勝利を挙げると、次の中日戦こそ負けたものの、そこから球宴明け最初の中日戦まで6連勝を飾った。と思っていたら、7月27日の中日戦から4連敗。9月1日の中日戦を最後に先発からも外れて、10日の横浜(現DeNA)戦では中継ぎで登板した。
そうこうしているうちに、日本のプロ野球では初となるストが9月18、19日の2日間にわたって決行された。オレが何かしたわけじゃないからここでは詳細について触れないけど、近鉄とオリックスの合併に端を発した球界再編問題で、球界は上を下への大騒ぎ。新規参入を認めるかどうかをめぐって、選手会と日本野球機構(NPB)とのギリギリの交渉が続いていた。
結果的にストは1度だけで済み、最終的には楽天の新規参入が承認されたわけだけど、先の展開がどうなるかは流動的だった。実際に選手会は、翌シーズンからの新規参入が認められなければ2度目のストに突入する覚悟を決めていた。
そんな矢先のことだ。投手コーチの佐藤義則さんに呼ばれて、二軍調整を言い渡されたのは。いくら調子を落としていたといっても、すでに7勝をマークしていたオレには2年連続2桁勝利の可能性が残されていた。
「ファームで野球をするぐらいなら、上で投げさせてくださいよ」。そう言ってプチ反抗すると、よっさんは「ストがどうなるか分からんし、10勝は無理やろ。明日から休んでてええで」と。その足で岡田彰布監督のところへあいさつに出向いたら、今度は「おう、たまには顔出せよ」って。引退する選手にかけるような言葉だったけど、気持ち良く送り出してくれたのはオレを大人扱いしてくれていたからだろう。そんな首脳陣の厚意に甘えて、一足早いオフを迎えることにした。
競馬に例えるなら長期放牧に出されたようなもので、与えられた時間は有効に使わなきゃもったいない。ちょうどそのタイミングで、飲み仲間でもあったバルセロナ五輪男子4×100メートルリレー代表の鈴木久嗣君から「会社を辞めた」という連絡が入ったこともあり、オフの間だけパーソナルトレーナーをしてもらうことにした。先を見据えてしっかり下半身を強化しておこうという考えもあったから。結果的にこの3か月に及ぶ陸上トレが翌年の最多勝にもつながるんだけど、元五輪選手が組んでくれたメニューは、泣く子も黙るハードなものだった。
※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。