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沖縄自主トレ〝不法侵入事件〟の真相【下柳剛連載#21】

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下半身強化を目的とした陸上トレの効果は翌年に

 首脳陣に「もう休んでていいよ」と言われて、最終戦を待たずにひと足早くオフに突入していたオレは、日本ハム時代から仲良くしていた元バルセロナ五輪陸上男子4×100メートルリレー代表の鈴木久嗣君のもとで、下半身の強化を目的とした陸上トレに臨むことにした。特に不安を感じてたというわけではないんだけど、先を見越して「やっとこか」って感じで。個人的には「投手は走ってなんぼ」っていう考えだから。

 それにしてもハードだった。元五輪選手が組んだメニューはハンパないものでね。最初は東京の駒沢オリンピック公園総合運動場でやって、2次キャンプは石垣島の陸上競技場。走るための基本動作から教わって、徹底的に走り込んだ。1時間のジョギングのあとに30メートル走や50メートル走、100メートル走を何十本とやって、それからウエートトレ…みたいな感じで。

 日々のメニューを消化するだけで精一杯だったけど、面白いもんで教わった走り方が身についてくると、タイムはどんどん良くなっていった。50メートル走のベストが6・2秒で、200メートル走も30秒を切るようになったんだから大したもんでしょ。36歳のおっさんでも鍛えれば成長するんですよ。

引退するまでもっとも重要視したのは走り込みだった。左は桟原

 ついでに言うと陸上トレでは、やり投げにも挑戦した。肩を痛めないように、男子用より200グラム軽い女子用のやりを使ってね。50~60メートルは飛ばせるようになって、たまにフォークの握りで投げたりもしていた。キレを良くするためにね。

 この3か月に及ぶ放牧期間は、ほんと有意義だった。体調も例年以上に良かったし、手応えも感じていた。唯一計算外だったのは、キャンプ前の自主トレ期間中に、石垣島からずっと連れて歩いていた愛犬のラガーが民家に迷い込んでしまったことくらい。東スポさんでも大きく取り上げていただいたけど、中身は大したことじゃなかった。

 一応説明しておくと、沖縄で借りていたペンションに帰る途中でコンビニに寄ったときに、ラガーが車から飛び出して、知らない人の家に入り込んでしまった。で、連れ戻そうとしたら、家の人が不法侵入者と勘違いして「いったい何ですか?」となった。

下柳の愛犬ラガーに入り込まれた家のご主人・普天間大志郎さん。愛犬のハナ(手前)とじゃれていたという(2005年2月、沖縄・恩納村)

 まあ、体のでかい見知らぬ男が庭先に立っていたら誰だって驚くわな。そんで「すいません、犬が逃げてしまったんで」って説明したら「警察呼びますよ」と。でも、なかなか警官が来なくて、ようやく来たのが20~30分後。逃げ隠れするつもりもなかったし、事情を説明して「何かあったら連絡ください」と滞在先も告げて「じゃあ、帰ります」と。

 こうして箇条書きっぽく書くと、大したことないでしょ? 最後は、その家のご主人からも「下柳、頑張れ」って言ってもらえたし。ことのほか大きく報じられたのは、キャンプ前のネタ枯れの時期だったからなんじゃないかと見ている。

騒動を報じた東スポ紙面(2005年2月17日付発行)

オレの2桁勝利宣言で岡田彰布監督がうれし泣きしたらしい

 結果として最多勝のタイトルを獲得する2005年は、オフに取り組んだ陸上トレの成果もあって、キャンプから順調だった。手応えもあった。それでつい、大胆な行動にも出てしまった。高知の安芸で行われた2次キャンプ最終日の打ち上げの席でのことだ。

 ひとしきりあいさつが終わると、オレを含めたベテラン勢がビール瓶を片手に岡田彰布監督のもとへ行った。それこそ、サラリーマンが上司にお酌するような感覚で。そのときに、つい口にしてしまったんだ。「オレ、2桁勝ちますから優勝しましょう!」って。シャイなシモちゃんは、そんなタイプじゃないのに。

岡田監督の口からは想定外の発言が飛び出した。手前は手塚オーナー(当時)

 顔から火が出るような思いをしたのは、開幕前に行われた激励会でのことだった。壇上に立った岡田監督が「ある投手が私に『10勝する』と言ってくれました」とスピーチで暴露してね。内情を知っている選手たちはニヤニヤしているし、ほんと恥ずかしかった。

 ウソか本当か分からないけど、オレが「10勝します」と宣言した晩、岡田監督はうれし泣きしていたという。今になって思えば、パーティーの席上で「ある投手が――」とスピーチしたのは「酔った勢いで言うただけやないやろうな」っていう確認の意味があったのかもしれない。

 シーズンが始まると、順調に勝ち星を重ねていった。4月5日の広島戦での初勝利から6連勝。前半戦だけで8勝を挙げて球宴にも出場した。もちろん自分の力だけじゃない。オレ、そしてチームの快進撃を支えてくれたのは鉄壁のリリーフ陣だ。ジェフ・ウィリアムスの「J」、藤川球児の「F」、久保田智之「K」の頭文字をとって「JFK」と呼ばれた3人は無敵だった。

 とにかく6回までリードを守れば勝てるという絶対的な信頼感があったし、首脳陣も余計なことを考える必要がない。それこそ、先発投手がノーヒットノーランでもしていない限りは、判で押したように「JFK」を投入した。

 相手にとっては脅威だったと思う。6回までにリードを奪わなければ圧倒的に負ける確率が高くなるんだから。

下柳(左)の食べている甲子園球場新メニュー「下柳の五島うどん長崎ちゃんぽん風」の器に手を伸ばす藤川球児(2008年4月、甲子園)

 05年のオレの完投数は「1」。投げたのは132回1/3で規定投球回数に届かなかった。それでも15勝できたのは、それだけ「JFK」のお世話になったからだ。彼らの存在がなければ、史上最年長での最多勝のタイトルも手に入れることはできなかった。

 そんなオレを、球児は「社長」と呼んでいた。なぜかと言うと「仕事をくれる人」だからだそうだ。順調に「JFK」の仕事の世話?をして、8月6日の広島戦で“ノルマ”の10勝もクリア。ただ、その直後に予期せぬ落とし穴が待っていた。

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しもやなぎ・つよし 1968年5月16日生まれ。長崎市出身。左投げ左打ち。長崎の瓊浦高から八幡大(中退、現九州国際大)、新日鉄君津を経て90年ドラフト4位でダイエー(現ソフトバンク)入団。95年オフにトレードで日本ハムに移籍。2003年から阪神でプレーし、2度のリーグ優勝に貢献。05年は史上最年長で最多勝を獲得した。12年の楽天を最後に現役引退。現在は野球評論家。

※この連載は2014年4月1日から7月4日まで全53回で紙面掲載されました。東スポnoteでは写真を増やし、全26回でお届けする予定です。

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